~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
ろう (二)
新羅の使いは、八月の末日本を後にした。右京に住む一人の男から、小さな白い亀が献じられたのは、その後間もなくのことである。孝経こうきょうや中国の古図を調べた結果、天子の徳、中でも孝養を称賛する瑞兆ずいちょうとされ、文武百官への禄が下賜され、亀の出た地への免税が行われた。
こうして皇太子即位のための演出はすべて完了した。瑞兆に関しての元正のしょうはなかなか意味深長である。
「孝経には天子孝なる時は天から竜ふぁ下り、地から亀が出るという。また、熊氏瑞応図ゆうしぞうおうずによれば、王者が不偏不党なれば霊亀れいきが出るという。自分は不徳の身をもって、この瑞兆を得た。よろしく百官と慶びをわかちあいたい」
孝とは元明の遺言の実践を意味する。不偏不党とはすなわち、首をかつぐ藤原氏との妥協の暗示である。
詔を出した後、四十四歳の女帝は、ひどく疲れ切っている自分を感じた。
── これまで負い続けて来た責任のいかに大きかったことか。
が、今の自分には、年若い協力者を得た喜びはない。心のどこかで、
── これでよろしかったのですね、お母さま。
亡き母に改めて問いかけたい思いがしきりにするのである。
死に臨んで、母はたしかに「皇位を首へ」と言った。が、同時に、生命をふり絞って、母は長屋と房前のいる前で、こう言い残していった。
「私はわが子に位を授けるのです。そして、後々も・・・たしかに、まちがいなく・・・天皇の位は、わが子に伝えられるものでなければなりませぬ」
重い意味を含んだ母のあの言葉を、どうやって実現すべきなのか、負わされた荷は、いよいよ重みを増して、肩に食いこんで来るように元正には思われた。

翌年二月、元正は首に位を譲った。大極殿だいごくでんで即位の儀が行われると同時に、先の瑞兆に因んで、年号も神亀じんきと改められた。譲位にあたって元正の出した詔はかなり複雑なものだった。大げさな美辞麗句がちりばめられることは、こうした場合のしきたりであったが、よく読めばその裏に房前たちの思惑と元正の意思がせめぎあっている。
藤原氏側は、首、すなわち後のspan>聖武しょうむと呼ばれる二十四歳の天皇の正統性を主張するべく、文武の死去の折、首がすでに後継者として決まっていたことを強調しようとした。それが実現できなかったのは彼が幼少だったからだという言い方を、結局元正は受け入れたが、それを彼女は藤原氏への譲歩とは思っていなかった。
── そんな言い方をすれば、誰でも気づくはずです。十五歳になった時、皇子がなぜ即出来なかったか、ということに・・・・
詔はだから元明から元正への譲位には頬被りをする奇妙なものとなった。そしてその代わりとして、元正は、母の元明の死の床での一言を、はっきり詔の中に明記させた。
「後遂ニハ我子ニ佐太加サダカ牟俱佐加ムクサカ無過事アヤマツコトナク授賜サズケタマヘ負賜オホセタマヒ詔賜ニリタマヒシニヨリテ今授賜サズケタマハムト所念坐間オオモホシマスアヒダニ・・・・」
藤原氏も異存はなかった。これこそ、元明太上天皇の首即位の承認と受け取っているからである。こうして首即位の関する詔は、二重の思惑を秘めて発表されたのであった。
この日長屋は正二位に進み左大臣に任じられた。同時に大伴旅人、藤原武智麻呂むちまろ、房前らが正三位に。妥協の中で、元正・聖武ラインによる新時代が始まった。
それを追いかけて、聖武は三ぽん吉備皇女に二品の位を贈った。元正の妹であり、長屋の妻である吉備に最大の敬意を払ったのである。同じく二品に叙せられたのは天武の皇女で、すでに老齢に達している田形たがた皇女一人である。ほかに数人の皇族の女性が昇叙されると同時に長屋のもう一人の妻、藤原長娥子ながこ(不比等の娘)も従四位下から従三位へと昇進した。彼女はすでに長屋との間に数人の子女を儲けている。
こうして、まんべんなく恩恵をふりましておいて、聖武は何気ない形で勅を滑り込ませる。
「正一位藤原夫人フニンヲ尊シテ大夫人ダイフニント称ス」
ことわり書きも理由もついていない。が、この藤原夫人は、いうまでもなく、彼の生母宮子のことだ。文武天皇の皇子を身ごもった彼女が、藤原夫人と呼ばれているのは当然のことだが、大夫人という称号は前例がない。
事は全く抜き打ちに決定された。さきに内臣ないしんに任じられていた房前が聖武の意向を事務当局に伝え、文書を作製してしまったのだ。
その奇怪さにたちまち気づいたのは左大臣の長屋である。
「それはおかしい。我々はそのようなことを耳にしていない」
が、太政官だいじょうかんはからなかったからと言って、これは違法とは言えなかった。内臣という地位がきわめて含みのあるものだったからである。房前が内臣の地位を与えられたのは、政府と内廷の間に立って両者の間を調整するためであった。具体的に言えば元正と藤原氏側との間に立って、摩擦を避けるよう潤滑油の役を果たすことが重要な任務だったが、聖武の即位によって事情は微妙に変化した。拡大解釈すれば、内臣は周囲を無視して天皇と組んで大きな権限を握る事も出来る。
新羅の使いを接待したあの日、長屋の意向にたがうまいと、あれほどの気遣いを見せていた房前は聖武の即位二日目、早くの豹変したのである。
それにしても、この奇怪極まる決定は何を意味するのか。元正は早速前房を呼びつけて、その意図を尋ねた。
「帝はなぜそのような決定をなされたのです?」
房前の答えはしこぶる曖昧あいまいだった。
「さあ、何とも・・・。私はただ帝の御命令を承って、役所に伝えただけでございますので」
心にもない事を言っていることはわかりきっている。不比等よりさらにうやうやしげに、白を切る房前を元正は問い詰めた。
「藤原宮子媛は文武の帝の夫人ぶにんでした。この称号は帝が亡くなられたからも終生変わらず与えられることになったいます」
「左様でございます。それは存じております」
房前はよりうやうやしげにうなずく。
後宮職員令ごぐうしきいんりょうには天皇のきさきについての規定がある。四品以上の皇女がきさきになった時は(その中の一人が立后して后または皇后と呼ばれる)、諸王、諸臣の家の女性は、三位以上を夫人ぶにん、五位以上をひんと呼ぶ。
ただし、これらきさきの産んだ皇子が即位した時は、天皇の母として、それぞれ皇太后、皇太妃、皇太夫人と呼ばれる。かつて文武が即位した時、母である阿閉あへ(後の元明)が皇太妃と呼ばれたのはその例である。
「ならば、藤原夫人は今後皇太夫人と呼ばれるべきなのに、なぜ大夫人とするのですか」
「・・・・」
「宮子夫人自身の希望ですか」
その時だけ、房前は、はっきり不定した。
「いや、そのようなことは・・・」
そうであろう。宮子は聖武を産んで以来、精神に異常を来しているという噂が専らである。
人と会うのを避け、どこかに隠れ住んでいるという話で、その居処さえもはっきりしない。
実子の聖武も生まれてこのかたその顔を見ていないというこの女性に、称号について云々する力のない事は明白である。結局、房前はその点を明らかにしたでけで、
「帝としても深い御意図があってのことではないと存じますが・・・」
とたくみに言葉をにごしてしまうのだった。
元正は嫌な予感がした。新帝聖武に問いただす前に、長屋と会って、話ししたかった。が、気がついて見ると、身辺には、何か眼に見えない柵が設けられてしまったような感じなのである。
聖武の即位に伴って、平城京はにわかににぎやかになった。どこにも人が満ちあふれている。その中で、人眼を避けて長屋と会おうことは不可能に近い。もどかしい思いで日を重ねるうち、三月、聖武が吉野に旅することになった。長屋はもちろんそれに従ったが、元正は出発の直前、めまいに襲われ、床についてしまった。
2019/10/06
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