~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
ろう (三)
吉野は壬申じんしんの戦の記憶に連なる所である。祖父母、天武、天武、持統の歴史が息づいている。
聖武と共にその地を訪れることは、父の文武に流れる祖父母の血への自覚を促すことでもある。半ば藤原氏の血を享けつぐ聖武ではあるが、その風景を眼にし、祖父母の歴史を語れば、自分の立場を深く思い知るだろう、とは思ったのだが、心に体がついてゆけなかった。
三月一日、元正は床の中で、
「帝は無事御出発になられました」
という侍女の報告を聞くより他なかった。そして平城京がいつになく静寂になったその日之昼下がり、
「吉備さまが、お見舞いにお見えでございます」
元正は、久々の妹の訪れをうけたのである。
「どうなさって?」
侍女の声に重なり合うようして、明るい声音とともに、椿の枝を抱えた吉備が姿を現した。
「邸の庭に咲きましたのよ」
侍女にかめを持ってこさせて器用に活けると、姉のとこに顔を近づけ、そっと手を握った。
「ま、なんてつめたい手」
言いながら眼顔で侍女を退さがらせた。
「しばらく私にお世話させてくださいね」
それでもひとしきり子供の噂など他愛のない話を続けていたが、周辺に人影のなくなったことを確かめると、その表情が俄かに引き締まった。
「わかりましたわ、お姉さま」
声にならないほど低くささやいた時、吉備の瞳には鋭い光があった。
「帝の勅、大夫人の意味が」
さらにその声が低くなる。
「「ま、それは?」
思わず起き上がろうとするのを吉備はやさしく制して続けた。
「おみごとな仕掛けがおありでしたの」
「・・・・」
「文字は大夫人。でもそれには、もう一つ口づての御意向が添えてあったのです」
「それは?」
「その大夫人の文字をオオミオヤとお呼びするようにって」
「オオミオヤですって?」
くり返した時、元正は全てを理解した。宮子を皇太夫人、または藤原夫人と呼びたくなかった藤原氏の意向が、その短い読み方の中にあざやかに浮かびあがって来たのである。
当時の日本語には文字に対して二通りの読み方が行われている。たとえば、皇后はコウゴウであるとともにオオキサキである。同様にはキサキ、夫人ぶにんはオオトジ、ひんはミメと呼ばれる。その意味で宮子はこれまでオオトジであった。
ところでオオミオヤには、これまで皇祖母をあてている。げんに先頃元正の出した詔でも、元明を皇祖母オオミオヤと呼んでいるのだ。藤原一族は、皇太夫人を避け、大夫人と呼ばせることで、宮子を一歩皇族に近づけた。いずれ皇祖母へのすりかえを行う魂胆を秘めてのことかも知れない。
「だからお姉さま、お元気にならなくてはだめ」
媚びの眼はじっと元正をみつめている。元正こそは天皇家のオオミオヤたるべき存在なのだ。その身に万一のことがあったら、藤原氏は直ちに宮子をその座に据えようとするだろう。
「わかったわ」
元正は大きな息をした。体の中を血が脈打ち始めるのを感じている。
── 負けられない。
と思った時、早くも対策が頭に浮かびはじめた。吉備は、大丈夫よ、とでも言うようにその手を握って微笑している。
「御心配なく」
長屋がすでに作戦を練っている、ということはすぐ察しがついた。
2019/10/07
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