~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
赤 い 流 星 (一)
小さな命のがともった。
そして一年経たないうちに、その灯はゆらめき、あえぎ、そして消えた・・・・。
それからしばらくして、赤い流星が月のない夜空を飛んだという。黒漆の闇に長く曳かれた光の尾は、やがて四つにけて宮中にちたそうな、こわごわ語る侍女に、
「そう」
うなずいただけで、太上帝だいじょうてい元正は、遂にその顔を見ようとはしなかった。
── 自分はひどく疲れている。
太上天皇という誇りが無かったら、その場に倒れ伏してしまいたい、とその時彼女は思っていたのだった。
── 流星が墜ちた?それが何だというのか。
一年近く、闘いの渦の中であがき、傷つき、うちのめされてきた元正であった。
何のために? 誰のために?
その小さな命のために。
乳を呑み、泣き、眠る事のほかは、ほとんど何をすることもなくきえていったその命を巡って、一年近く、宮廷には嵐が吹き荒れた。
── もしあの幼児が生きていて、私が死んでいたら?
ふとそう思う事は、単なる仮定ではなかった。じじつ、数年来、元正の不調は続いていたのだ。甥の聖武に位を譲った直後に寝込んだのをきっかけに、二年後の神亀じんき(七二六)年には、一度は重態に陥りもした。幼児の生まれる前の年のことである。
「お加減はいかかでいらっしゃいますか」
病床を見舞う聖武は気づかわし気に言った。
「大赦も行いました。僧尼数十人を得度とくどさせ、御本復ほんぷくを祈らせております」
それから小さな声でつけ加えた。
「政治向きのことは御放念くださって療養におつとめください。ふつつかながら、私、どうにかやりとげております」
が、元正の気力を奮い起こさせたのは、聖武の慰めよりも、妹の吉備の言葉である。
「お元気にならなくてはだめ」
その言葉の裏には、
── もし万一のことがおありだと、藤原氏はまたもや宮子を担ぎ出します。
という意味が込められている。長屋王の反対によって、「大夫人だいぶ」という称号を引っ込めざるを得なかった屈辱を、藤原氏は忘れていない。宮子は従来通り皇太夫人に止まり、口で言う時だけオオミオヤとすることになったが、もし元正がいなくなれば、彼らは必ずこの問題をむし返し、天皇の生母である宮子を、はれて皇祖母おおみおやにしようと工作するだろう。
── そうさせてはならない。
その気力だけで、元正は辛うじて生き続けた。が、その年の秋、彼女は、もうその気力さえ半ば失いかけている自分を感じた。
── そうだ、あの時、私は死ぬと思っていたのだ。

二年後の今、改めてそのことを思い出す。死ぬ前に、やらねばならないことがあったのだ。
それは死の床にあった母、元明太上天皇と同じく、皇嗣こうしを指示してゆくことである。あのとき、母は、最後の力をふるい起こして、元正と長屋と藤原房前ふさまえを呼び、聖武の即位を認め、さらに、意味深長な言葉を残した。
「皇位は、たしかに、まちがいなくわが子に」
元正が近づきつつある死の跫音あしおとを聞いたように思った時、頭に浮かんだのはその母の言葉だった。
── お母さまのお言葉を実現せねば・・・・
重病の床に彼女は聖武と長屋と房前を呼んで言ったのである。
「帝の後には、わが妹、吉備の子を」
元正から見れば聖武は弟の子、吉備の子供たちは聖武と同格なのだ。すでに元明時代、彼ら膳夫かしわで葛木かずらぎ鉤取かぎとりの三人は、元明の皇孫として格上げされている。父方の長屋王の系譜を辿たどれば、天武天皇の曾孫そうそんでしかないが、母方を辿ればまぎれもなく元明天皇の孫であり、血筋の尊貴は聖武に劣らない。いや、それどころか、聖武の母は藤原氏出身の夫人ぶにん宮子だが、彼らの母は二ほん吉備皇女。宮子などの及びもつかない輝かしい存在であり、歴代天皇と血のつながりの深かった蘇我そがの倉山田くらやまだ石川麻呂いしかわまろの系統をもひいている。
そのことを口にした日の光景を元正は忘れてはいない。聖武は頬をかすかに翳らせて、
「は・・・」
と答えてまつげを伏せた。長屋はこと自らの家に関する問題だから発言は差し控えている。そして房前が一見恭しげに一礼しつつ、瞬間鋭く眼を光らせたのは、胸中の無念を隠し切れなかったのであろう。
この時、聖武には二人に娘しかいなかった。一人は安宿あすか媛の産んだ九歳の安倍、一人はわずか年上のあがたの犬養広刀自いぬがいのひろとじ所生の井上いのうえ。すでに成人に達している膳夫やそれに続く葛木、釘取、二王子には比すべきもない。
── そして、私がこの世を去り、遺言が実現されていたとしたら・・・・
今にして元正はその思いを深くするのである。
2019/10/08
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