~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
赤 い 流 星 (三)
巧妙に演出され、拡大されていく慶祝ムード。世をあげての祝賀気分は、元正の力をもってしても止めることの出来ないところまでいってしまった。
── 御覧ください、太上帝おおきみかど
あの目の鋭い視線を投げてきた房前が、そう言っているのが聞こえるような気がした。
── あの日、私どもは負けました。しかし今度、負け札を掴まれるのは、太上帝、あなたさまでございますぞ。
「いいえ」
気力を奮い起こして、元正は呟く。
「何で、負けるものですか。そなたたちに」
が、奔流はもう止まらなかった。せき止めようとする元正側の工作はすべて失敗に帰した。
勝に乗じた聖武と藤原側は、息もつかせず新たな提案をぶつけてくる。もといと名づけられた生後一月あまりの嬰児えいじ を、はっきり皇太子として立てたい、というのである。
── そ、そんなことは・・・
会議の席に病軀びょうくを運んだ元正は思わず吉走りそうになった。生まれたての嬰児を皇太子に立てるなどという例はない。
── 御心静かに・・・
複雑な眼の色が、じっと語りかけている。
── でも・・・
急いで元正は反論しようとした。
── ここで反対しなくては、私たちは完全に負けてしまうのですよ。
── そうです。
── それでもいいというのですか。
長屋の瞳はかすかに頷いたようだった。
── そうです。残念ながら、私たちは負けております。そして負けた以上、これは堪えねばなりませぬ。
── では、むざむざ基が皇太子になることを認めよというのですね。
長屋は眼を伏せた。やがて、思い決したように元正をまともに見た。
── 今はそれより他に道はないと存じます。
その瞳は明らかにそう言っていた。
他から見れば、たった一瞬のことだった。席に連なる人々は、元正が言葉を選ぶためにちょっとした沈黙の時を持った、と思ったかも知れない。それほどの短い間に、すばやく意思を通じ合える元正と長屋であったのである。
かたちを改めて、元正はやがて言った。
「ではけい等の意見を聞きたい」
形通りに会議は進められた。大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂は大賛成だった。房前と広庭は、それに異議はないと言った。大伴旅人は、太上帝の御意向にまかせる、と言った。長屋は発言を差し控えた。ひととおり意見の開陳かいちんが終わった後で、元正は静かに頷いてから口を開いた。
「卿等の意向がそのようならば、私もこれを認めるにやぶさかではありません」
緊張しきった聖武の頬がゆるみ、泣き笑いのような表情になった。
「ありがたいことでございます、太上帝」
が、房前はまだ疑いを拭いきれない、というふうに固い口許くひもとをしている。
── 二言にごんはございませんでしょうな。
できれば念を押したそうな面持ちである。
そして、房前に重なるようにして、虚空から自分を射すくめてくる視線を、元正は感じないではいられない。
皇子の生母、安宿のそれだ。幼い頃から、気の強い、視線の鋭い少女だった。「藤原夫人」とよばれる今、つとめて元正と顔を合せないようにしている気配がある。公式の場では、太上帝である元正に礼を欠くところはなかったが、それがもうひとりのきさきである県犬養広刀自のような心からの敬意でないことは見てとれた。
その気の強そうな瞳には常に苛立ちがあった。藤原一族の期待を背負いながら、男の子を生めぬ不運は勝気なだけに堪えがたいものがあったろう。それゆえにこそ、四人の兄を楯に、殻の中に固く閉じこもっていた彼女が、いま、堂々と挑戦的な視線を投げてきている。元正が基を皇太子と認めようとも、夫のように泣き笑いを浮かべて感謝する彼女ではないはずだ。
不比等とも宮子とも違う、いまひとりの敵は、明らかに姿を現しつつある。双の腕に勝利の象徴である幼い幼児を抱きながら・・・・。
── 私は勝ちました。太上帝よ。
鋭い視線の前に、いま、敗北宣言をせざるを得ない元正だった。
── それ故に、堂々としていなければいけない。王者の敗北とはそうしたものなのだ。
元正は強いて胸を反らせ、かすかな笑みさえも浮かべた。
ふと、平城京への遷都を受け入れざるを得なかった母、元明の面影が眼に浮かぶ。母もまた不比等に敗れながら、ひるんだ様子を見せなかったではないか。顔を被ってうちひしがれた姿を見せたのは、藤原京を発って長屋原ながやのはらに泊まったあの夜だけだった。
── お母さま・・・
心の中で叫びながら、今やっと自分は母の苦悩の全てを理解し得た、と思った。
結果から見れば、病臥びょうが中の元正が、皇嗣についての意向を洩らしたのが、藤原側の結束を固め、基の立太子を急がせたことになるかも知れない。そして元正の病臥そのものが藤原氏の勢力の拡大を許し、基皇太子擁立の基礎を固めさせたとも言えるだろう。
しかし、それらの原因のどれ一つを取ってみても、「もしそうでなかったら」という仮定の許されるものではなかった。元正の病臥もやむを得ないことだったし、重態に陥りかけたあの時、皇嗣について言いおくのは太上天皇としての義務でもあった。それにまだ聖武には男児がいなかったのだから・・・・。
会議の間じゅう、長屋は二度と元正と瞳をあわせようとはしなかった。が、それから間もなく、偶然人少なの廊で顔を合わせた時、長屋は元正に従う侍女に気づかれないようにささやいた。
「お見事でございました」
あの日の会議について言っているこよはすぐわかった。
「ひとつも取り乱したところがおありになりませんでした」
「卿の見るとおりの負け戦ですもの」
元正もほほえんで小さく言った。
「いや、私は・・・」
「太上帝の語身辺を案じて、あの時はそうすべきだ、と思ったのです」
「え? 私の身を案じて?」
「は、油断はなりません」
「それから、一瞬長屋は元正をひたとみつめた。
「もちろん、私は、命にかえても太上帝を御護り申し上げるつもりですが」
「ま、何と言うことを」
そんな危険が実際にあるというのか、と問いかけて元正は口をつぐんだ。瞳の底にすみれ色の翳が走ったのはこの時である。長屋はあるいは、その翳を求めて、彼女の瞳を見つめたのかも知れなかった・・・・。
2019/10/09
Next