~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
む と き (一)
手足が震えながら冷たくなってゆく。ともすれば薄れがちの意識の中で、元正は必死に喘いだ。
「帝のおいでを」
言わねばならぬ、母代わりの伯母として。いや、共同統治者太上天皇として・・・・。
「「房前ふささき ・・・。いますぐ帝を」
現前の房前は恭しげに頭は下げたものの、無言である。
「左大臣の家に兵をさしむける。そのような大事を、事前に私にひと言の相談もなしに」
「いや、太上帝おおきみかど、それは・・・」
房前はやっと頭を上げた。
「帝は、太上帝のお体を御案じ申し上げておられまして。お驚きのあまり、御病気を悪くなされては、と仰せられ・・・」
── 言い逃れだ。
そんな言い訳は聞きたくもない、と思った。
「それとこれとは別です」
気力を奮い起こして元正は言葉をほとばしらせた。
「いやしくも太上帝として私がいる限り、帝は何事も相談の上で事を運ばれるべきです。それが昔からの習わしではありませぬか」
「は、たしかに・・・」
房前はうなずきながら、病床の元正をじっちみつめた。
「そうした前例はないわけではございません。しかし、必ずそうせねばならぬ、とうきまりもないかと存じます」
「きまり?」
「はい、令の規定にはどこまでも・・・」
息もとまりそうな怒りを、元正は辛うじて抑えた。まさしく房前の言う通り、律令には天皇についての規定は全くないのである。
── だから何事も太上天皇に御相談申し上げねばならぬというわけではないのでありまして・・・・
房前の眼はそう言いたがっている。律令の世界で育ってきた冷徹で育ってきた冷徹で腕ききの彼らしい挑戦である。仕掛けられた罠から危うく元正は身をらす。天皇の権限、太上天皇の権限についての議論などに引き込まれる場合ではないのだ。
「いま、けいから、しきたりの、きまりの、とおい話を聞こうとは思いませぬ。とにかく帝をここへ、ぜひともお渡りを、と伝えなさい」
「は、しかし私には帝の御使いとして、遣わされましたもので、帝には、我が身に代わって太上帝に申し上げよ、と」
「それが内臣ないしんのつとめだ、と言いたいのですか」
元正は房前を見据えた。
「それなら太上天皇である私の言葉も、内臣として、帝に伝えなさい。長屋王の邸を囲む中衛府ちゅうえふの兵士たちを直ちに退かせること。そして帝みずからここにお渡りになること」
「・・・・」
「さ、一刻も早く」
元正の視線の前に、一瞬、房前もたじろぎを見せる。その機を元正は逃さなかった。
「行きなさい、房前、そして、帝をここに」
「は・・・」
帝王としての彼女の威厳が、遂に房前にこうべを垂れさせた。
が、元正の枕頭ちんとうを離れた房前は、なかなか姿を現さなかった。その間にも、刻一刻と時は過ぎて行く。
元正は苛立ちを抑えることが出来なかった。侍女たちを再三房前の許に走らせた。
「御返事を」
「帝はいつお渡りになられますか」
その度に房前の答えは、
「しばらくお待ちを」
であった。
日はすでにけている。そのうち、やっと房前が姿を現した。
「帝には、お渡りになれぬということで」
一応困惑の表情を浮かべている。
「それはなぜに」
元正は鋭く問い詰める。
「いや、私も度々伺ったのでございますが、ただ、行けぬ、と仰せられるのみで」
「内臣ともあろう者が、そのようなことで務めを果たせると思っているのですか」
「申し訳もございませぬ」
頭を垂れて沈黙し、ややしばらくしてから、房前は眼を上げ、ものやわらかに言った。
「もう一度、行ってまいります」
好意に似たその視線を現象はね退けた。
「けっこうです」
「それでは、わたしの務めが ──」
「いえ、卿の労を多とします。では、帝にこう伝えなさい」
「は」
「それでは、私の方からまいります、と」
「あっ、何と・・・」
房前が絶句したのと、
「そ、それは」
悲鳴に似た叫び声をあげて侍女たちがとりすがるのと同時だった。元正は、彼女たちの方を見なかったし、もう一言いちごんも発しなかった。双方の眼が蒼い光芒こうぼうを放ち、房前と声なき戦いを交わしたのは、むしろそれから先であった。
── 房前よ、引きのばし策に乗る私と思っているのですか。
── ほう、そのお体で、帝の許へ行かれる、と仰せられるので。
── 行きますとも、行かずにはおくものですか。
── 失礼ながら、お命が保ちますかな。
── さりとは親切な。どうせ私は死を覚悟しています・・・
20191010
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