~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
む と き (二)
不意をかれた元正側の頽勢たいせいは明らかだ。この瞬間に命を賭けねば活路は見出せない。表面は恭しげに、しかし底意地悪く元正を見つめつ房前の眼にも、かすかな動揺はある。よもや元正が聖武の許を訪れることはありまい、という計算が狂ったのだ。
侍女たちに手を取られてとこに起き上がった元正は眼を閉じている。侍女たちが手早く髪をでつけ、衣装を調えるのが、あたかも死出しでの装いをされているように感じられた。とこに横付けされた輿こしに、抱えられて移った。
── もうここも見納めになるかも知れぬ。
扉を排する音がする。内廷の樹々の下を輿は過ぎて行くのだろうか。遥か遠くへ運ばれるような感じがしたのは、この時、彼女は半ば気を失っていたのかも知れない。
気がつくと、目の前に聖武の顔があった。
「太上帝・・・」
輿のとばりは撥ね上げられている。聖武は驚愕きょうがくを隠し切れない面持であった。
「ここまでおいでになったのですか」
どうかそのまま、と言うのを制して、助けられて椅子いしに移り、聖武と対座した。
「お渡りにならないというので、こうしてまいりました」
聖武の顔が不安に歪んでいる。いや恐怖の翳さえあるのは、多分自分が幽鬼のように見えるからだろうと元正は思った。
「左大臣のことを、どうなさろうというのですか」
「・・・・」
「私に何の相談もなく・・・」
名状しがたい混乱の表情をさとられまいとしてか、聖武は額に手を当てた。
「それも取るに足らぬ卑しい者どもの密告をに受けられるとは、帝のなさりようとも思えませぬ」
「・・・・」
軽挙はおつつしみなさい。左大臣に二心にしんがあるなど、心卑しき讒言ざんげんに過ぎません」
「・・・・」
「国を傾けようと呪詛じゅそするなど、考えられないことです」
この時、聖武は額にあてていた手を下ろした。今まで一度も見たことのない彼の顔がそこにはあった。
「太上帝」
声まで今まで聞いたことのない冷たい響きを帯びていた。聖武は続ける。
「私もそのようなことを信じたくはございません」
「では、なぜに」
「しかし、太上帝」
いよいよ冷たく、聖武は言う。
「げんに、わが子は死んだのです」
「し、それは・・・」
たった一年足らずで、わが子は死にました」
「・・・・」
「かわいい子でした。あんないたいけな命が散るとは、信じられません。死ぬはずのない子が死ぬとは、これはどういうことなのか」
「でも、病とあれば・・・」
聖武はゆっくりと首を振った。
「呪詛です。呪詛以外には考えられません」
「そ、そんな」
病んでいる自分以上に、甥は異常を来している。日頃から繊細な彼は、皇子の死の衝撃で平静な考え方が出来なくなっているのだ。
「帝・・・」
うつろになりかけている聖武の瞳を、自分に向けさせようと喘いだ。
「しっかりなさらねばいけません。今心が弱くおなりなのです。あらぬことを耳に入れるやからを信じてはなりませぬ。呪詛などと、そんな・・・」
聖武の頬が歪んだ。口の辺りだけ笑いに似たものがよぎったが、眼は笑っていない。
「呪詛でないとおっしゃるのですか」
「そんなこと、あるはずがありません」
「おかしなことですね」
聖武の口許がさらにすさまじく歪んだ。
「太上帝はそう信じておられる。そして私は全く反対のことを信じている」
「もし、帝の信じておられることが真実でなかったら? とりかえしのつかないことになりますよ」
「その時、私が後悔するとお思いですか」
「・・・」
はっと息をつめたとき、聖武の顔から、奇怪な笑いに似た表情が消えた。
「太上帝、いあや、伯母上」
「・・・」
「あなたは御存じない。子を奪われた者の心を・・・」
「・・・」
「子を持ったことのないあなたに、この苦しみと悲しみがおわかりですか」
ずかずかと近づき、平手打ちを食らわせるようなその言葉・・・・。味わわされているのは屈辱ではなかった。余生を否定されるような衝撃の中で、元正はもがいた。意識の薄れてゆく耳許で、聖武は冷たく言う。
「中衛府の兵を退けとおっしゃったそうですが、お言葉には従いかねます。それどころか、私は衛門府えもんふ衛士府えじふの兵士にも出動を命じました」
・・・待って! 待って!
叫んだように思う。そのまま暗闇に墜ちてゆくような気がしたのは、混濁こんだくした意識のためか、それとも夕闇が訪れていたのか・・・・。
20191012
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