~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
む と き (四)
「私たちは殺されたのよ、お姉さま」
事件が終わって間もなく、夜更けに元正は吉備の悲痛な叫びを聞いたような気がした。
── そうでしょうとも。
勝気なあなたにかぎって、自らの命を棄てるようなことはない。私はそれを信じている、と言ってやりたかった。
「殺されたのよ、私たちは・・・」
それは樹々の梢を吹き渡る風のうなりかも知れなかった。しかし、
「そうよ、わかってるわ、私には」
元正は答えずにはいられなかった。
「そうなの、あなた方は殺されたの。はじめから彼らはあなた方を狙っていたのよ」
彼らがもくろんだのは、左大臣長屋の失脚だけではなかった。いやそれは一族鏖殺おうさつの序曲にすぎなかったのだ。むしろ狙いは吉備と息子たちにあった、と言ってもいい。
なぜなら、吉備こそ先帝元明の正統を受け継ぐ娘、その息子たちは皇孫の待遇をすでに受けているのだから。
── そして、私は、ななた方に何と詫びたらいいのか・・・・
頭を垂れて、いま、元正はそう呟くよりほかはないのだった。
かつて重病に陥った日、病床に聖武と長屋と房前を招き寄せて、聖武の皇嗣こうしに、吉備の息子たちを指名した。まだ聖武の皇子、もといが生まれる前のことだ。
が、そのひと言が藤原側の警戒心を強めた。もし元正の言葉が実現したなら、吉備はかつての文武とその母(後の元明)と同じ形で統治権を握ることが出来るのだから。聖武に基が生まれると、藤原側にとって、吉備母子はいよいよ厄介な存在になってきた・・・・。基の死を機に、藤原側は一気に宿敵を血祭りにあげたのである。
── 私のひと言が、あなた方を今日の運命に追いやったのだとすれば・・・・
「ああ」
暗闇の床に起きあがり、元正は身を震わせる。
── あの時死ぬかも知れなかった私はこうして生き残り、あなた方はみな死んでしまった・・・・
そうなのだ、五十歳の元正は、たったひとり、病み衰えながら残された。頼る人とてなく、この先、いかに生きるべきか。気力はすでに尽きはてている。
三月の末、病床を離れたころの元正は、ふしぎなほど威厳に満ち、敗者の翳はどこにもなかった。しかし、
── 王者たる者は、一番苦しい時にこそ、最も王者らしくあらねばならぬ。
自らに言い聞かせ続けていることに気づく者は一人もいなかったに違いない。
それまでに、事件の処理は慌しくすまされていた。あの日、衛士府、兵衛府に拘束された者はすべて放免された。長屋と日頃親しかった者数人が関係者として流罪に処せられただけで、長屋の弟鈴鹿すずか以下の血縁も縁座えんざを免れた。不比等の娘で、長屋の妻の一人だった長娥子ながことその息子、娘たちは許されたのはいうまでもない。
これに先立って、長屋夫妻は、慌しく生駒山に葬られている。
「吉備内親王に罪はないのだから、葬送の儀は鼓吹こすい(音楽)だけを停止し、その他は規定に準じるように、長屋は罪人だが、さりとて葬儀はあまろ粗末にせぬよう」
とってつけたような聖武の詔勅も出た。
事件の発端となった密告者には莫大な恩賞が授けられた。漆部君足ぬりべのきみたり中臣宮処なかとみのみやこの東人あずまひとは揃って外従げじゅ五位下ごいのげに昇進したほか、食封じきふや田が与えられた。中でもそれまで無位だった東人の飛躍的出世は、前代未聞といってよかった。
そうした細々とした報告を、元正はほとんど無表情で聞いた。
長屋たちのほふりがひそやかに行われた後、侍女がそっと紙片を差し出した。
大皇乃おほきみの みこと かしこみ 大荒域乃おほあらきの 時尓ときに波不有跡はあらねど 雲隠座くもがくります
細い筆蹟であった。
「誰の歌なの?」
倉橋部くらはしべの女王おおきみさまのでございます」
長屋の一族と親しかった女王のことを、元正は知らないわけではない。
天皇の命じられるままに、あなたは逝ってしまわれた。まだお亡くなりになるお年でもないのに・・・ほふりの宮を作る御年でもないのにあなたは逝ってしまわれた。「おほきみの みことかしこみ」という短い言葉の中に様々の思いの込められた歌を元正が口ずさんだ時、侍女はうつむいたまま顔をあげなかった。
── 私の涙を見まいとしてなのだろう。
侍女の心遣いは痛いほどわかったが、しかし元正はこの時もほとんど無表情だった。
── いま泣き崩れるくらいなら、私はとうの昔に気を狂わせています。
顔を上げた侍女は、思いがけなく元正のやさしい瞳にぶつかって、かえって、ぎょっとしたようだった。
高官たちの官位の昇進についても、格別の意見を差し挟まなかった。中納言だった藤原武智麻呂を大納言に任じたいという聖武の言葉にも、黙ってうなずいただけだった。
むしろその静かさに、聖武も近づきがたいおそれを感じたらしい。小心そうな瞳の色に戻って、
── よろしゅうございましょうか?
おそるおそる元正の顔色をうかがうようにした。
20191012
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