~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
極北の星 (二)
母はそこで口を閉じた。その先を言ってしまうことにためらいがあるようだった。ひとたびは意を決するように、顔をあがかけてまたうつむき、それから声も低く語ったのは次のようなことだった。
「多分あなたの産む女の子には、世の常の幸福は恵まれないだろう。それに数倍する栄光が待ち構えているからだ。もしその子が世の常の女のように恋をし、子供をもうけるなら栄光は消えよう。それどころか、そこにはおそるべき運命が待ち受けているだろう・・・」
母が語る間、氷高は黙っていた。
栄光もおそるべき運命も、すべて自分のこととは思えなかった。何か遠い国の物語でも聞いているような気がする。
「お母さま」
氷高の瞳の底に、すみれ色の翳りがよぎった。
「ね、お母さま、そのお話、お信じになるの?」
母のふくよかな頬に、一瞬苦しそうな微笑が浮かんだ。
「いいえ、私は余り信じないたちなの。夕占問だって、おもしろ半分にやってみただけ、それに、夕占問だって、当たらないときが多いというわね。でも ──」
母は静かに氷高の肩を抱いた。
「お母さまはね、そなたたちに不幸が押し寄せて来ることだけは防ぎたいの。信じなくてもいいことかも知れないど、わざわざ不幸を選び取ることはないでしょう」
「でも」
氷高は十四歳の少女とは思えない落ち着いた口調で言った。
「それは、私のことかしら、妹のことかしら」
「さあ、それはわからないわ。まだそなたたちのお父さまと結ばれる前のことですもの。女の子が何人生まれるかなんて考えてもみなかった。でも、そなたにも吉備きびにも、不幸になってほしくないのよ」
「では栄光を望んでいらっしゃるのね。栄光って何かしら?」
母の答えは思いがけないものだった。
「苦しみ・・・・かも知れない」
「え?」
「でも苦しみは不幸ではないの。わかるかしら?」
「・・・・」
「恋をし、子供を産んで不幸になるのだったら、むしろ栄光の道を選ぶことね、そう、後へは退けないのよ、私たちは」
最後の言葉は、娘を力づけるというより、自分たちに負わされている宿命を確認し、凛呼りんことしてそれを受け止めようとする響きさえも含んでいた。
「私たち蘇我そがの娘たちには、どのみち平坦な生涯は許されていないのだから」
2019/09/05
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