~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
極北の星 (三)
月の出が夜ごとに遅くなると、それだけ星の光は えてきた。勾欄こうらんに身を寄せて、氷高は、蒼白い光を放つそれらの群の中に、極北の星を探す。
── どの星なのかしら、それは。
全天の星が一夜の中に大きく位置を変えるというのに、それだけは、じっと虚空にたたず みつくすという、その星。
── その星が私の星。私を見つめてくれるというのか。
夕占問の女の言ったのはどういうことなのか。苦しみは不幸ではない、と言った母の言葉も、十四歳の氷高の理解にはあまる言葉だった。母は女の言葉を信じるというよりも、宿命から眼をそむけるなと言いたかったのだろうか。
が、氷高の思考はそこで中断された。背後の扉が開かれ、
「お姉さま」
妹の吉備の、よく透る声が響いたからである。
「もうやす みましょう。外は寒いわ。風邪をひくといけないわ」
「そうね」
氷高は勾欄を離れた。前からの習慣で、姉妹は枕を並べて寝ている。それぞれ乳母めのと や侍女たちにかしずかれているのだが、
「私、お姉さまの傍がいい」
吉備が言い出したのはいつのことだったろうか。末っ子の甘ったれが受け入れられるのはいつものことで、以来どちらかが寝息をたてるまで、とこ の中で二人きりのおしゃべりを楽しむ。それも、おもに話すのは吉備の方だ。氷高は妹のとりとめもないおしゃべりを聞いてやる役に廻るのが常だった。このところ吉備の関心は専ら馬にある。今日はどこまで走らせたとか、愛馬が、どんなふうになついてきたか、どこのやしき に新しい馬が運び込まれたか・・・・。そのうち、コトンと話が途切れたかと思うと、もう軽い寝息が聞えている、ということも度々だった。
「ね、お姉さま・・・・」
その夜も、例によって馬の話をしていた吉備だったが、そのうち、
「しいっ」
口をすぼめて、指を立てた。
「音がするわ」
まさしく、枕紙まくらがみ の壁を、遠慮がちに、こつこつ、とたた くおとがする。
「誰かしら」
二人は床の上に起きあがっていた。
氷高の頭をかすめたのは、数日前渡されたあざやかな紅葉のことだった。
  あが 下心したこころ  木葉このは しるらむ
と書き送ってきたその人が、大胆にも忍び寄って来たというのか。
きつこつ ──
音はまだ続く。
「開けてみる?」
吉備がささやく。
「・・・・」
氷高は無言である。その人が訪れたとすれば大胆すぎる。いや、誰か使いをよこしたのだろうか。
「ね、お姉さま」
とこ をすべりおりようとしている妹の手をおさえ、
「しいっ」
小さく氷高は言った。
を消して」
床近くにゆらめいてい燭が吹き消され、部屋が真闇まやみ に蔽われたとき、ひそやかな訪れの音は、いよいよはっきりと伝わってくるように思われた。
戸を開けるべきかどうか。
開けよう、という思いが、石を投じられた池の面の波紋のように氷高の胸にひろがってゆく。それでいながら、眼に見えないひも で縛られてしまったかのように、体が動かない。
── 開けてみよう。
── いえ、いけないわ。
── もしかすると木の葉のかた かもしれない。その顔をたしかめるだけなら・・・・
氷高の心は制しきれなくなっている。さっとゆか に下りたって、足早に近づこうとしている・・・・。
が、現実の彼女は、妹の手をじっと握ったままだった。その彼女が、はだしのまま走りよって戸を開けようとしているもう一人の自分を眺めていた。
2019/09/06
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