~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
極北の星 (四)
どのぐらい時が経ったろうか。
しのびやかな訪れはやんでいた。厚い壁に隔てられて、その足音を聞きつけることは出来なかったが、しの人はすでにこの殿舎を離れて行ったらしい。
氷高はふと、極北の星が静かにその人の肩を照らしている光景を思い浮かべた。
「惜しいこと」
耳のもとで妹がささやいたのはそのときである。
「木の葉のかただったかも知れないのに・・・・」
「えっ、何ですって」
ふ、ふ、ふ、とあどけない、それでいてふしぎにませた含み笑いを吉備は響かせた。
「知っていたの? あなた」
それに答えず吉備は言った。
「誰なのか、私も知りたかったのに・・・・」
「どうして知ってるの、あなたは」
「お姉さま」
「・・・・」
「それが誰かってことを知っても、別にそれは恋を受け入れたことじゃないわ。その人を愛することでもないわ」
あどけない少女の口から漏れる、「恋」、そして「愛」という言葉が、大まじめであるだけに、ひどく透明で、いささか滑稽こっけいでもあった。
「おませねえ、あなたって」
氷高はどぎまぎして、そう言うよりほかはあなかった。その言葉を無視するように、
「でも、そうね・・・・」
考え深げに吉備は言った。
「一度めに開けたりしてはいけないわね」
「まあ・・・・」
「お姉さま」
さらに彼女は、姉の息をとまらせるようなことを口にしたのである。
「お母さまのお言いつけを、そのまま守ることはなくてよ」
「えっ、あなた、聞いていたの?」
「ごめんなさい」
にわかに、あどけない口調になって、吉備は姉の首にかじりつきながら床の中に倒れ込んだ。
「聞いちゃったの私、ごめんなさいね」
「まあ、あきれた」
油断のならない子だ。ちゃんと甘ったれて許しを請うすべも心得ている。姉の耳にしゃにむにくちづけをし、温かい息を吹きかけるようにして言った。
「でも、私はお姉さまの味方よ」
「あら」
「お母さまがああおっしゃっても」
「いいえ、そうではないの」
氷高が、はっきりした口調でそう言い、妹の手を握り返したのはこの時だった。
「私は別に、お母さまのお言いつけどおりにした、というわけじゃないの」
「まあ、ほんと? はじめから木の葉のかたには御返事もしないつもりだったの」
「ええ」
「どうして?」
戸に走り寄ろうとしている自分を、もう一人の自分がみつめていたあの瞬間を、どうやって妹に語ることが出来るだろう。
吉備はまだ不審げであった。
「ああいう歌を贈って来る人は、お好きではないの?」
「いえ、そうではないの」
氷高は身をよこたえると妹の手を放した。
「さ、もうやすみましょう」
しかし眠れる夜ではなかった。その耳許に響くのは、母の声であった。
「私たち蘇我の娘たちには、どのみち平坦な生涯は許されていないのだから」
母の声は、ひと夜じゅう、この美貌の少女の耳許で語り続けていた。
2019/09/06
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