~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
死 の 乱 舞 (三)
中納言大伴旅人は、太宰だざいそつとして、ついこの間まで筑紫にあった。寺内に招じ入れらてた旅人が、都を離れていた数年の間に、面変りするほど老けこんでしまったのに、元正は気づいた。六十六歳の彼は現地で妻を失っているのである。
「気の毒なことをしましたね」
差し招いて悔やみを言う元正の前で旅人はこうべを垂れた。
「有り難いお言葉でございます」
早くも目頭を押さえて意いる。
「いや、年をとりますと、涙もろくなりまして、見苦しいことでございますが・・・」
酒を愛し、豪放そのものだった彼も、いまや心弱さを隠し切れない様子である。
「都に戻ってまいりましても、荒れた我が家に妻の手植えの樹ばかりが伸び育っておりますのをみるにつけ、心が痛みまして・・・」
と言いかけて語調を変えた。
「あ、それよりも・・・」
この度は、と言いかけて絶句したのは、長屋王一族の滅亡という事件の重大さを口に出しかねてのことだろう。旅人は、廟堂びょうどうにおける、数少ない長屋の協力者の一人だったのだ。
太上帝の御胸の内を拝察いたしますと・・・」
老臣の声はとだえがちだった。
「この私が都におりましたら、このような事態は防げたかも知れませぬのに・・・」
「そうかもしれません、でも──」
元正の声音こわねは落ち着いていた。
「帝がけいを筑紫に遠ざけたことは、そのためだったともいえます」
はっとして、旅人は元正を見上げた。硬骨の武人、旅人は、たしかに藤原氏にとって目障りな存在だった。
「私もそれを感じていましたが、しかし、卿よりほかに、大宰府統率する人がいなかったことも確かです。やむを得ず、赴任を認めたのでしたが・・・」
元正はむしろ淡々とした口調で言った。
「今となっては、それを悔いても仕方のないことです。いえ、むしろ、そのことを梃子てこに、新しい道を開くべきだ、と考えるようになりました。卿を都に呼び戻したのはそのためです」
旅人は深く一礼した。
「大上帝の御配慮だったとは洩れ承っております。それで、御挨拶に参上いたしましたのでございますが、こちらの御寺みでらにお出ましと伺い、あえて後を追わせていただきました」
「それはかえって好都合でした。こちらの方が、ゆっくり話が出来るかも知れません」
促すようにして、元正は境内を歩みはじめた。
20191016
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