~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
死 の 乱 舞 (四)
この年の九月、大納言の多治比池守たじひのいけもりがこの世を去り、長屋王の事件の直後大納言に昇進した藤原武智麻呂むちまろひとりが、その座にあるという状態になった。長屋王の死後、大臣は空席のままだし、知太政官事ちだいじょうかんじ舎人とねり親王は、もともと飾りもの的な存在に過ぎない。この政治空白を埋めるために、
── 旅人の帰還を、大納言昇進を。
と強硬に主張したのは、ほかなたぬ元正である。長屋一族滅亡後の巻き返しの第一弾だと言っていい。時の流れに巻き込まれ、いたずらに歎き悲しみ続ける元正ではなかったのである。いや、手足をもがれ、真に孤立したと知ったことによって、むしろ、覚悟は決まったのだ。
女帝であった時より、誇り高くありたい、とひたすら思った時、突破口として思い浮かんだのが、旅人だったのだ。
「大宰府にいたことによって、郷は彼らの避難をかわすことが出来ました。藤原の連中も、さすがに卿を左大臣の同調者だと言いくるめることは出来ないはずです」
一見、無色透明の旅人であってみれば、藤原氏側も、元正の希望を退けることは出来なかった。
「しかし、このことは卿に重荷を負わせることになりかねませんね」
老い衰えた旅人に、元正はそう言わざるを得ない。
「何の」
旅人は、それでも勢いよく首を横に振った。
「命にかえても、大上帝のために働く所存でおろますれば・・・」
言いかけて、まぶしげに元正を見あげた。
「それにしても、お変わりになられませぬなあ・いや、それどころか、お別れ申し上げて筑紫に旅立ちましたときより、大上帝はむしろお若く、美しくなられました」
「ま、そのようなことは」
「いえ、真実でございます。私はこのように妻の死を悲しみ、老いさらばえてしまいましたが・・・」
「卿が妻の死に老いたというなら、私はあの悲惨な事件のゆえに年をとることを忘れた。ともいえます」
嘘ではなかった。嘆きに中で朽ち果てることが許されないのならば、無理にも心勁く行きぬかねばならない。そのことが、彼女の眼を輝かせ、頬をみずみずしくさせているのかも知れない。
「ならば、私も、老いの身にむち打ちまして」
旅人が歯のない唇許くちもとに微笑を浮かべる。
「そうです。そうしてください。そしてあしあたっては・・・」
元正は声を低くした。
安積あさかを・・・広刀自ひろとじの産んだ皇子みこを頼みます」
はじめて彼女が口にする。聖武の皇子の名であった。
これまで、元正はその存在から意識的に眼をそむけてきた。長屋と吉備の間に生まれた膳夫かしわで以下の甥を皇子に、と考えてきた彼女にとって、それはむしろ眼ざわりな嬰児えいじだったから・・・・。
聖武を父として、きさきの一人、あがたの犬養広刀自いぬがいひろとじを母に、彼が生まれたのはちょうどもとい王── 安宿媛所生しょせいの皇子がこの世を去る前後のことだった。広刀自はもともと控え目な女性で、安宿の蔭で、その存在はかすみみがちだった。したがって、皇子を出産しても、基王の誕生、立太子りつたいしの騒ぎに気押けおされて、安積と名づけられたその子については、世の中は全く関心を払わなかった。
が、基が死に、長屋一族が滅亡した後では、この皇子の存在は別の意味を持ってくる。皇太子と称した基が世を去ったのだから、しぜん、その後釜あとがまに据えられるのは安積、と人々は思うようになっている。
事件の衝撃から立ち直れなかった元正が、そのことに気づいたのは、異例の華やかさで行われた安宿媛の立后りつこうの折である。これ見よがしに行われた立后の儀だったが、その蔭には、藤原氏の不安が顔をのぞかせていた。
20191016
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