~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
死 の 乱 舞 (五)
── もし安積が立太子したら? わが一族に未来はない。
その即位を防げるには、安宿 の立后しかない。と彼らは思ったのだ。ひよわな聖武に万一の事があった場合も、そうしておけば、皇后たる彼女が帝位につくことも出来るからだ。
表面元正に対して凱歌がいかを奏しているかに見えて、藤原氏が安宿の立后を急いだのは、そんな理由があったのだ。そしてその日以来、安積という幼い生命は、元正にとって別の意味を持つようになった・・・・。
あれは、亡き妹のささやきだったのか、それとも、自分の心の声だったのか。華やかな立后の日はっきり見据えたそのことを、彼女は、旅人の前ではじめて口にした。かつて藤原氏は、文武のきさき、石川刀子いしかわのとじのいらつめ紀竈門きのかまどのいらつめを、きさきの座から蹴落とした前歴がある。石川刀子娘が文武の子を二人産んでいたからである。首(聖武)の座を危うくしかねない彼らを排除するための策謀だった。二人の男の子は、殺されることはなかったが、今は母と共に臣籍に入れられ、都の片隅でひそかに生きている。
安積もまた、膳夫たちのように死に追いやられるか、臣籍におどされるか?
危険にさらされている皇子を救ってやろうというのか? と問われたら、多分元正は答をためらったことだろう。真実を言えば、皇子への同情からではなかったからだ。しかし、少なくとも、藤原氏が栄光に向かって走り出そうとしているのを阻むためには、安積は貴重な存在だった。さしあたっては旅人を大納言に押し上げ、安積の後盾とすることで、元正は反撃の足掛かりを得ることにしたいのである。
多くを語らずとも、旅人はすべてを察したとうだ。深くうなずくと、
「問題は皇后の母君、橘三千代どのですな」
「声を低めてそう言った。橘三千代はもともと県犬養氏。正式には今も、県犬養橘三千代と呼ばれている。つまり広刀自とは同族なのだ。が、不比等の妻となり、安宿媛を産んで以来、彼女は藤原一族の中に溶け込んでいるかに見える。不比等の二男房前が、内臣として兄をしのぐほどの活躍を見せたのも、三千代の先夫(美努みぬ王)の子、牟漏むろ女王を妻にしているからでもある。
現在こそ兄の武智麻呂が大納言に昇進し、藤原氏の筆頭に位置しているが、依然房前は、一族内での実力者なのだ。
「そうです。三千代の胸の内は測りかねます。しかし、不比等の亡くなっ今、必ずしも、藤原氏に密着してゆくかどうか」
「わかりました。その辺を探ってみることにいたしましょう」
元正は話題を変えた。
「そなたの息男そくなんはいくつになりましたか?」
家持やかもちでございますか。まだ十三にしかなっておりませんので・・・」
「しかし先が楽しみです」
五位以上の貴族の子弟は、二十一になると、内舎人うどねりとして出仕することが出来る。宮中での宿直とのい、雑務にあたるわかだが、安積より十歳ほど年上の家持は、多分よい近習きんじゅうの一人となることだろう。
元正はこの時、ひとつの未来図を描きはじめていたのだったが・・・・。
20191017
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