~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
宮 都 変 転 (一)
── 左大臣よ、吉備よ。
彼らの葬られた生駒の山を眺めながら、太上帝だいじょうてい 元正は心の中で呟く。
── 見ましたか、都のありさまを。そなたたちを死に追いやった藤原四兄弟は、一度に姿を消してしまいました。私が手を下したわけでもないのに・・・・
秋風が激しく木の葉を鳴らすその日、彼女の呼びかけに応えるかのように、生駒の山容は、あざやかに迫って見える。そして風の音に混じって、
── ほ、ほ、ほ・・・・
華やかな吉備の笑い声が聞えた、と思ったのは空耳だったろうか。樹々のざわめきともつれあうようにして、それは虚空こくうをかけめぐり、元正の耳許で叫ぶ。
── ええ、ええ、お姉さまが手をお出しになることがなくてよ。まあ見ていてご覧なさいな。これから先、もっとおもしろい事が起こるから・・・・
何ですって?
はっと、周囲を見廻す。女官たちに、秘密の会話を聞かれはしなかったか、と。気がついたとき、虚空に笑いはじけた声は消え、秋風はいよいよ激しさを加えていた。
翌年の七月、兵庫ひょうご寮で殺人事件が起こった。左兵庫さひょうご少属しょうさかん大伴子虫おおとものこむしという男が、右兵庫頭うひょうごのかみ中臣宮処なかとみのみやこの東人あずまひととたまたま碁を打っていて、勝負のことからいさかいになり、やびわに刀を抜いて、東人を斬り伏せてしまったのだ。ところが、その後から、ふしぎな噂が流れた。
「子虫は叫んだと言うぜ、今日のこの日を俺は待っていたんだ、って」
「というと、遺恨ばらしか」
讒臣ざんしんめ、思い知れ、と言ったともいうぞ」
声をひそめながら、人々はうなずきあう。子虫は亡き長屋王から目をかけられていた人物であり、相手の東人こそは、その長屋王のことを密告した一人である。東人はこれを賞されて無位から一躍外従五位下げじゅうごいのげに出世して人々を驚かせた。さらに、食封じきふや田地を下賜され、やがて兵器の出し入れを司る兵庫寮の責任者にspan>抜擢ばってきされていたのだが、子虫は旧主の恨みをはらすべく、その機を狙っていたらしい。事件そのものは闇から闇へ葬られるような形でうやむやにされてしまったが、当局が子虫の追及に熱意をしめさなかったのは、東人の訴えそのものが誣告ぶこくだったことを暗に認めていたことの証左になるかもしれない。
あきらかに四兄弟の死を契機に時代は変わりつつあった。
── 妹よ、そなたの言ったとおりです。私が手を下さなくとも、罪はあばかれつつあります。
眼をつぶったまま、正元はそっと呟いてみる。ありし日の長屋の白皙はくせきの面差と重なって、吉備の華やかな笑顔が、まざまざと眼裏まうらに浮かんでくる。
大伴虫子という男を元正は知らない。
── 十年間、悔しさを耐えしのんできたのは私も同じことです。
太上天皇という立場でなかったら、駆けつけて手を握ってやりたいところだった。が、強いそれをしなかったのは、政治的配慮からである。もちろん、万一の場合はおお手をひろげてかばってやるつもりだったが、そうした事態も起こらなかったのは、無言の世論が、子虫の背後にあったからではなかったか。
功名皇后は、事件に衝撃をうけているという。四人の兄弟の強力な支えを失い、みずからの立后りっこうが、血みどろなからくりの上に成り立っていたことあばかれて、自信を失ってしまったらしい。すっかり体調を崩し、食欲もなく、眠れない夜が続いている様子である。
聖武ははじめこの事を秘していた。光明の不調を公表すること、とりもなおさず、藤原一族の敗北をあからままにすることになつからだ。しかし、光明の不調はいつまでたっても快方に向かわず、遂に聖武は「病患ヲスクフタメニ」と、大赦を行うことを公表する。子虫が東人を殺した翌年、天平十一(七三九)年二月のことである。王者にとって屈辱的な敗北宣言といってもいい。
元正は無言で事態を見守っている。
── 吉備よ、そなたの言うとおりね。私は何ひとつ手を下さなくても、向うは敗北を認め始めました。
しかも大赦を行っても、光明の健康は、一向に回復する兆しは見えなかった。
その頃からだろうか、元正が、聖武の瞳の中にある、異様なおのにきに気づいたのは・・・・。
たしかに、聖武はこのところ元正の視線を避けている。長屋王の事件の折に、その無実を主張しようとして、病を冒して出かけた元正に、
「伯母上、あなたは御存じない。子を奪われた者の心を・・・」
冷たく言い放った気魄きはくは、今の聖武にはひとかけらも残っていない。その瞳に問いかけるのは元正の番である。
── おわかりですか。無実意の罪で肉親を失った者の胸のうちを・・・・
その視線に遭うたび、聖武はおろおろとして眼を伏せる。落ちつきのない瞳の底に秘められたものが、悔恨以上のものであることを知ったのは、三月初めのことだった。
2019/10/19
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