~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
宮 都 変 転 (二)
その日、聖武と元正は、平城京を北にさかのぼった山背やましろ相楽さがらか郡の甕原みかのはら離宮にあった。聖武の突然の思いつきで行われた二泊の小旅行は、ほんのかりそめのものとあって、従う者もごくわずかだった。
「是非ご一緒に──」
という要請に応えるまでもなく、元正が一行に加わったのは、その離宮が、母の元明の在世当時造られたものだったからだ。藤原氏との相剋に疲れた母は、逃れるように、屡々しばしばここを訪れたものだった。その日、聖武は珍しく晴れやな表情を見せ、
「ほんとうにここは心安まるところですね」
元正を振り返ってそう言った。甕原は、周囲を低い丘陵に囲まれた、こじんまりした盆地で、陽をうけた泉川がゆるやかに流れ、早春の野には鳥の声がみちていた。
「別天地だなあ、ここは。青い瓦の官衙かんがもない。人影もまばらだ。亡き太上帝おおきみかど(元明)がここをお疲れ休めの地としたのも無理はない」
小手をかざして、川面に砕ける春の陽に眼を細めながら、聖武はひどく祖母の元明をなつかしむふうだった。しかし、
「皇后も同道されればよろしかったのに」
と、元正が一行に加われなかった光明のことに触れると、
「あ、いや、まだ体が元に戻っておりませんので・・・」
聖武は、かすかなうろたえを見せた。が、そのときを除けは、彼は人が変わったように快活だった。
随行者の筆頭は橘諸兄もろえである。藤原四兄弟の死後、参議だった彼は、一躍大納言から右大臣に昇進し、廟堂びょうどうの首座についている。この地に別邸を構えている彼は、聖武の先に立って、川のほとりを歩んだり、山の形を説明していたが、さりげなく元正に近づくとささやいた。
「御覧下さいましたか、帝のお顔色を」
「ええ、今日は晴れやかに見えますが・・・」
「おわかりでございましょうか、そのわけを」
「・・・」
「帝はいま、ひそかな計画をお持ちなのです」
「え?」
都遷みやこうつりをなさりたい御意向で──」
さりがない行楽にことよせて、今日はここを検分に来たのだ、と諸兄は声をひそめた。
「なにしろ、平城京は呪われたところでございますからな」
四兄弟の死によって聖武はそれを実感したのだ、と諸兄は告げた。
「このままでは危ない。いつ御自分の身に死が襲い掛かって来るかもわからない、とお考えなのでございます」
おびえきったその眼の色は、たしかにその恐怖を物語っていた。
「それで、この地を都にしたいと?」
元正の問いに諸兄はうなづく。
「平城京より狭うございますが、水清く山は緑に、心安らぐところと申せましょう」
が、聖武がこの地に目星をつけたのは、死の恐怖から逃れるためだけではないように元正には思われる。
── 不比等ふひとは、お母さまを蘇我氏ゆかりの地から引き離すべく、無理やりに遷都を敢行した。
敗北感に身を噛まれながら、飛鳥の地を後にしたときの母の姿が、今も元正の脳裏から離れない。
── その藤原氏の産んだ聖武が、平城京を呪い地として逃れようとするなんて・・・・
甕原を新しい都として選ぼうとしたのは、元明への謝罪の意味も含まれているのではないか。
いつに似ず、聖武が元明の思い出をなつかしそうに語ったのは、そのせいかもしれない。いま聖武は外祖父不比等をはじめとする藤原氏の強引さを率直に認め、彼ら一族の造り上げた平城京の三十年近い歴史をわが手で破壊しようとしている。
「もっとも、これは皇后さまには内密でございますが」
諸兄のささやきに、元正は、光明がこの日の行楽に加わっていない真の理由を理解した。
2019/10/20
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