~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
幻 想 の 王 国 (二)
元正は聖武の心の負いを知っている。彼は藤原氏を母とする最初の天皇だ。しかも藤原氏出身の光明を皇后とし、蘇我氏の娘たちが代々占めていた座を奪わせた。その後間もなく光明の四兄弟を一度に失い、さらに戦争の恐怖に追い込まれた彼は、いま恐怖のとりこになっている。
── 自分は天皇の座にあるべき人間ではないのだ。呪いの地、平城京では生きていられない。そう思うからこそ平城京を逃げ出したのだ。そして広嗣ひろつぐが斬られたいまも、呪いの血をけた阿倍を後継に据えることをためらっている。
自信というものをすべて失い、人間崩壊の寸前にあるいたましき王者──。
元正の心を刺すのは、その聖武が、時折、ひどく亡き弟の文武に似た表情を見せることだ。
── 似ている。こわいほど似ている。
わが妹、吉備を詩に追いやった甥を冷酷に見つめようとしながら、思わずぎょっとすることすらある。気がついてみると、憎しみよりも、あるなつかしさが感じはじめているのは、六十四という年のせいか、自分もまた王者の孤独を経験し続けてきたせいか・・・・。
光明も苦しんでいる。肉親を一度に失ったすさまじい孤独の中で、じっと歯をくいしばっている。もうこれ以上彼らを追いつめることは自分には出来ない ── といつか元正は思いはじめていたのであった。そして、この二人に手をさしにべるべく計画されたのが五節の舞なのである。
しかも元正が阿部を後継者としてはっきり認めたことは大きい意味を持つ。当時、皇位継承に絶大な発言力を持つのは、天皇及び太上天皇だったからだ。逆に言えば、皇太子という存在はきわめて不安定で、即位の直前まで不確定要素を持ちつづけているということだ。阿倍にはたしかに皇太子として役人や教育係である東宮学士とうぐうのがくしがつけられているが、それは絶対的なものではなかった。
が、ここで元正は公的認証を与えた。重大な問題が起こらない限り、阿倍の位置は安定的なもにになったといえよう。しかも聖武と元正の間に立って、それぞれの詔を取り次いだのは他ならぬ右大臣橘諸兄である。当然の役目とはいえ、ここにも元正の配慮が働いている。
── いいですね、帝の後継は阿倍です。古那可智こなかちの皇子誕生などに期待をかけぬように。その代わり、そなたには廟堂びょうどうの首班としての地位を保証します。
この日彼は正二位から従一位に昇進し、左大臣に任じられた。恭仁京くにきょうには以前から彼の別業べつぎょうがあり、いわば地の利もわがものとしている。
聖武に対しては、元正に眼はこう言っていた。
── もうたたりを恐れる必要はありません。阿倍は正統の後継者です。平城京を離れたいというならそれも認めましょう。王者の自信を回復し、放浪をやめることです。
光明に対しては、父不比等ふびとの造った平城京をあきらめさせる代わりに、阿倍を皇太子としてはっきり承認してやったわけだ。彼女にとってこれ以上に大きい贈物はないであろう。
つまりそれぞれに対して譲歩と融和を求め、一方でそれに見合うだけの権利も保証してやったのだ。今日の五節の舞について、元正が「単なる遊びではない、君臣父子の道理を説くものだ」と言ったのはこの意味なのである。
この日、元正は、太上天皇として、なすべきことのすべてをした。病む聖武を支え、ばらばらになった人々を融和させるために、五節の舞にことよせて高度の政治的解決を計った。もちろん彼女自身の譲歩も大きい。藤原氏を母とする阿倍を聖武の後継者として認めたのだから。
政治というものは妥協と融和の上に成り立つ。そしてその融和の上に、さらに彼女はもう少し先を見越している。
── 阿倍の後継者には、同じく聖武の血を引く安積あさかを。
暗黙のうちに、彼女はその指名権が自分にある事を人々に納得させたのだ。彼女と同じく未婚の女帝となるはずの阿倍の後に弟を据えることは不自然でも何でもない。昔から兄弟姉妹間の相続は多いし、げんに元正自身も、母の元明を経てはいるが、弟の文武から皇位を継承しているのだから・・・・。五節の舞は、こうした重大な意味を持つ政治的表現だったのである。
橘諸兄は自分の昇進に気をよくしている。光明はしきりに涙を拭っている。父の死、母の死、兄弟の死を経て、彼女もやっと心の平安を見出したのだろうか。が、相変わらず聖武の頬は暗い。この心弱き甥が王者の威厳を回復するのはいつの日か。阿倍は果たしてこの病める父をよく支えきれるだろうか。政治の接点にありながら、その意味も覚らず、けろりとしている彼女にそれを期待することに、かすかな不安を元正は感じた。
2019/10/26
Next