~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
幻 想 の 王 国 (三)
五節の舞という政治的な妥協が行われて以来、精力的な活躍を見せ始めたのは、橘諸兄であった。左大臣という廟堂の最高位に昇りつめたことが、彼に自信を持たせたのだろう。一方の藤原氏も、五節の舞を機に、参議の豊成とよなりは中納言に、その弟の仲麻呂が新たに参議に加わったが、それらの存在は諸兄の眼中にないようだった。仲麻呂は三十八歳、叔母である光明の信任篤いきれものだという定評はあったが、四兄弟が全盛を誇っていた時代に比べれば、その影響力は知れたもの ── と彼は思っていたようだ。
母の橘三千代の生前、諸兄は藤原氏とはかず離れずの立場を取って来たが、母の死後、そして四兄弟の死後は、むしろ独自の道を歩みはじめている。不比等べったりだで自分たちには次第に冷淡になっていったかつての日の母への不満を匂わせるようなこともあり、今の諸兄は、母を同じくする光明よりも、むしろ安積に厚意を寄せている。それもそのはず、安積の母はあがたの犬養広刀自いぬがいのひろとじで、橘の姓を名乗る以前の三千代とは同族の間柄だったからだ。
その安積は十六歳、すでに風格のある貴公子に成長しつつある。大伴旅人の子の家持やかもちもすでに二十六歳、内舎人うどねりとして内裏に参内する合間には、安積の邸に出入りしていることも多い。すぐれた歌才を持つ彼が、
  今造いまつくる 久邇乃くにの王都者みやこは 山河之やまかはの さやけき 宇倍うべ所知良之しらずらし
と恭仁京の風物を歌ったのもその頃だ。山も川もすがすがしいこの地が都となるのも当然なことだ、という言葉の中には、いつの日にかこのさわやかな都で安積が即位することを期待する思いが込められているかのようだった。
諸兄はすでに政治改革にも手をつけている。
墾田こんでん永年私財法」といわれるものがそれだ。それまでは「三世さんぜ一身いつしんの法」が行われており、荒野を開拓する場合、溝や池まで作った人は三代の間、もとの溝や池を修理して開墾した人は本人一代間、土地の占有、耕作が許されたのだが、新法では、墾田の永久私有を認めた。これには階級に応じた限度はあるが、土地公有を建前としたこれまでの政策の大転換というべきであろう。
新都における新政はたしかに緒に就いた感じだが、しかし、諸兄を困らせているのは、依然、聖武の心身が正常に戻っていない事だった。元正の配慮によって、政治の均衡は回復されたはずなのに、彼の怯えたような表情は変わらないのだ。
「さ、もう何も心配しなくていいのです。心を強く持つことです」
元正の励ましに、
「は、はい、そういたします」
言葉ではそう答えるのだが、いじけた眼の色は元のままだ。そうして、家持がこの歌を作ったころすでに聖武は恭仁にいなかった。
「家持が歌いましたように、山川さやけきところでございますのに・・・」
元正に歌を披露しながら、諸兄は吐息を洩らす。
「わかりませぬ、帝の御心が。あれほどここは安らぐところだと仰せになられておられましたのに」
やっと都の体裁が整いかけた時、何で物にかれでもしたように、逃げ出そうとするのか。
── もう甥が正常な心を持つ日は二度とやって来ないのか。
元正にもこれ以上手を差し伸べる方法は見つからなかった。
聖武の行く先は例によって紫香楽しがらき。広くはないがおだやかな丘陵に囲まれた明るい恭仁京と違って、より翳りの深い山峡やまかいの地だ。
「何でかの地をお好みなのか」
頭をかしげる諸兄や知太政官事ちだじょうかんじ鈴鹿王、中納言巨勢こせの奈氏麻呂なでまろに留守を命じて、聖武はまたも紫香楽に引きこもってしまったのである。
しかも、今度の滞在は長かった。八月が終わり、九月になっても、彼は恭仁に戻る気配を見せなかった。
2019/10/27
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