~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
終  曲 (一)
安積あさかが死にました」
「殺されたのです」
あの日の聖武の言葉を思い出す度に、元正の背筋に戦慄せんりつが走る。
聞かれてはならない言葉だった。かりにもわが子の死を告げる父の言葉としては気軽すぎた。歌うように、あるいは笑うように、彼はそれを口にしたのである。
── この異常さを、臣下に覚られてはならない。
祈るような思いが通じたのか、聖武はさすがに臣下の前ではそうしたことは口走らなかった。
そして安積の葬送が終わった今、誰一人として、若き皇子の死因に触れようとする者はいない。無気味な、と言ってもいいほどの沈黙の中で、
── 正常でなくなっている甥の言葉の中にこそ、真実が隠されているのではないか。
あの一瞬心に刻み込んだその思いが、きりのように正元を刺す。わけ知りの常識人が避けて通ろうとしている事実を、甥の異常な神経が切り裂いてみせたとは言えないだろうか。そして人々が意識してそれに触れないのは、あまりにも事が重大すき、謎が深すぎるからではないか・・・・
もし安積の死が尋常なものでなかったとしたら、先ず疑われるのは、左大臣諸兄もろえである。彼は恭仁京くにきょうの造営の推進者だった。それだけに、恭仁京の造営を中止し、紫香楽しがらき宮造りに全力を注いでいる聖武に深い恨みを懐いていたはずだ。諸兄を無視し、一気に紫香楽を都にまで格上げしようとする聖武を押しとどめ、一時難波なにわに遷都させて冷却期間を置き、両者の融和を計ろうとしたのが元正であり、諸兄も表面これに従っているものの、内心恭仁京には執着を残している。
安積が恭仁へ帰ったのは、だから彼にとっては絶好の機会った。自分自身は聖武に扈従こしょうして難波にいるが、何しろ恭仁は彼の根拠地である。ひそかに彼の意を受けて安積を説得する人間には事欠かなかったはずだ。
「このまま、恭仁にお留まり下さい」
「帝にもこの地にお戻りあるよう、皇子からおっしゃっていただけませぬか」
あるいは、そのささやきは、もっと毒を含んだものだったかも知れない。
「帝はすでに御病おんやまいが重くおなりです。いっそこの地で皇子御自身が即位遊ばされては?」
「皇子さえそのおつもりでございましたら、私どもは命がけでお護り申し上げます」
難波への遷都はいわば上層部の暗黙の了解によって行われたことで、帝位の象徴である高御座たかみくらも、都の権威を示すために宮門に置かれる大楯おおだてもまだ恭仁に残っている。兵庫ひょうごに納められた武器もそのままだ。それらを全部把握できるいまこそ── と、諸兄の息のかかった人々が思ったことは十分考えられる。
安積はしかし、その誘いには乗らなかったのではないか。十七歳の少年は心素直で、政治的野心のひとかけらもなかった。
「そんなことは出来ない」
彼は言下にそう言ったに違いない。
「父帝にそむき奉ることなんか自分は考えてもいない。そなたたちは謀叛をすすめるのか」
安積の口が黒い手で覆われたのは、事成らずと見極めがつけられた時か、それとも、「謀叛」の言葉が洩れたその瞬間か。
いずれにしても、安積は生かしておけない人物となってしまったのだ。もし安積が病癒えて難波に戻り、聖武に事のすべてを打ち明けたなら・・・・。諸兄はじめその一党は、たちまち謀叛の罪に問われるであろう。
2019/10/28
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