~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
終  曲 (二)
もちろん、諸兄はそんな気配は露ほども見せない。安積の死については誰よりも驚き、そして悲しんで見せたのは彼だったし、その葬送が終わった後は、むしろ高御座や大楯を難波に運ぶことを急がせもした。見様みようによっては、素知らぬ顔をして証拠を消してしまおうとしているふうにも見える。心ならずも聖武に従って難波に来た諸兄なのに、今は自分こそ難波遷都の推進者であるような顔をしている。
疑えばきりがない。黒い影はいよいよ深く諸兄にまつわりついているように思えるが、しかし、そのゆえに、元正は、さらに巨大な魔の手の存在を感じないではいられない。
その手は巧妙に、罪を諸兄になすりつけようとしている。誰か見ても諸兄の意を受けた人々の行為としか思われないような形で、ひそかに事件は仕組まれ、主謀者は、事あらば諸兄を告発しようと身構えている・・・・。
元正にはその影が見える。
諸兄を凌ぐ奸智かんちの持主は、恭仁京の留守を命じられた藤原仲麻呂──。
武智麻呂の子として、やや頭角を現しはじめた彼は、最近、藤原一族中一番見所みどころのある男として、叔母である皇后光明に信頼されているという風評もある。前の年に参議となって廟議びょうぎに参加したばかりの彼の動きに、もっと警戒しておくべきだった、と今にして元正は思うのである。
仲麻呂にとって、恭仁京の留守を命じられたのは、絶好の機会だったかも知れない。そこへ病に倒れた安積が運ばれて来る。この若者が頓死とんしすれば、遷都を快く思わなかった諸兄側に疑いがかかるのは目に見えている。左大臣を失脚させる好機ではないか。
が、仲麻呂の狙ったのはそれだけではなさそうだ。安積の死を告げられた時、ふと元正の胸をかすめたことを、彼もまた感じ取っていたのではなかったか・・・・。
── 聖武が異常なまでに紫香楽に執着し、ここを都としたいと思ったのは、落成の暁、ここで安積を即位させたいためでは?・・・・
安積の死後、元正の思いは確信に近いものとなっている。一応阿倍あべを皇太子に据えているものの、聖武が、藤原氏の血を呪わしいものと感じ取っていることには変わりはない。が、呪いを逃れてやって来た恭仁の地でも、諸兄たち橘一族にまつわりつかれ、ここでも聖武は心の平安を得ることが出来なかった。それ故にこそ、聖武は紫香楽へ新都を求めたのだ。そこで藤原氏ならぬきさきの産んだ安積を即位させることに、聖武は生涯の夢を賭けた。長屋王一族を死に追いやって以来のすべての罪の責任は自分にあると思い、生命をすり減らし、悩み続けた聖武の、それが唯一の願いだったのではないか。
そしてそれを仲麻呂が感づいたとすれば、藤原氏の危機を救うためには非常の手段に訴えるほかはない。
── 私はもっと早く気付くべきだった、仲麻呂という存在に。
奇妙に冷静に、歌うような調子でわが子の死を告げた聖武の声が、ふたたび元正の胸によみがえってくる。甥はすでに正常な心を失っていたのか。いや、もしかすると事のすべてを見透していたのではなかったか。
何故か間もな仲麻呂は恭仁京の留守を解任された。恭仁京におかれたままになっていた駅鈴えきれい内外ないげの印が取り寄せられたのもこのころである。やがて高御座も大楯も運ばれて来た。もちろんその一切を指揮しているのは左大臣橘諸兄である。いよいよ、難波遷都の詔が発せられるばかりになった時、
「折り入ってお話申し上げたいことがございます」
聖武からのひそかな使いがやって来た。
「梅の夜の宴にことよせて、今宵お越しを」
二月二十日すぎのよるのことであった。
2019/10/29
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