~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
終  曲 (三)
咲きみちているのは紅梅か白梅か。雲の低く垂れこめたその夜、樹々の姿は定かではなかった。
「むしろその方がいい、香りだけが無限に広がる」
と言って、聖武は前庭のかがりかせなかった。寒さがゆるみはじめたその夜、宴では琴がかき鳴らされ、歌が歌われ、久しぶりに宮廷には華やかな雰囲気が漂った。
その中で元正はいつもより盃を重ねた。頬がほんのり染まった時、
太上帝おおきみかどはいつまでもお若くていらっしゃる」
感嘆の声をあげたのは左大臣橘諸兄であった。居流いながれる臣下たちが一様に、
「まことに、昔とお変わりない」
とうなずきあった時、
「ほほほ、冗談はやめることですね」
元正もその場の調子に合わせて華やかに笑ってみせた。
「私はもう六十五、母帝のお年させもすでに越えてしまいました。老いはてています」
「いや、いや」
首を振ったのは諸兄である。
「私は太上帝より四つも年下でございますが、すでに髪はこの通り白く、背もかがまってしまいました。が、太上帝はおぐしにこそ白い筋が混じっておいでですが、お美しさは昔のままでいらっさいます」
諸兄の言葉がよい口実になった。元正は臣下の盃を進んで受け、
「あまりの快さに酔い過ごしたようです。ちょっとやすませてもらいます」
侍女に助けられて奥に入った。宴のざわめきはその後も続いたが、やがてあたりが靜になったと思うと、聖武が足音をしのばせて近づいて来た。
「ご気分はいかがですか」
「ありがとう。心地よくいつらうつらとしていました」
「思いのほかに御酒もお強いのですね、伯母上は」
天皇と太上だいじょう天皇という堅苦しさを離れて、伯母と甥というひとときを過ごしたいのだ、という素振りを聖武はしめした。が、それと知った侍女たちが傍を離れると、俄かにかたちを改めて低く言った。
「数日のうちに紫香楽に参ります」
「ま、では・・・」
正元は思わず息を呑んだ。
「遷都の詔はどうするのです。もう案文も出来上がっているでしょうに」
「伯母上におまかせします」
「でも、帝であるそなたがいなくては」
「太上帝として、伯母上がおいでになればそれで十分ではないでしょうか」
「では、一応ここを都とするのですね」
「はあ、大楯も門に立ててください。諸兄は一応面目をたもつでしょう。そして、私といえば、その諸兄の顔など見たくもないというわけです」
「えっ、では、そなたは・・・」
まじまじと元正は甥の顔を見つめた。それから先は言葉にならなかった。いや二人きりでいる現在でも口に出してはならないことであった。元正は瞳で問い続ける。
── では、安積は諸兄たちのてにかかった、と思っているのですね」
── さあ、どうでしょうか。
聖武の瞳に複雑な翳がよぎった。
「そうですか」
吐息とともに、元正は呟いた。
「やはり紫香楽の都造りを進めたいというのですね」
「はい」
少年のように素直にうなずく甥に、元正は言わずにはいられなかった。
「それが徒労であったとしても?」
はっとしたように聖武は眼をあげた。
── ご存知だったのですか、伯母上は。
── 甥よ、気づかないでどうしましょう。紫香楽は、安積のための都だったのではありませんか?
うなずく代わりに。聖武は靜に眼を伏せた。
「そうです」
小さな呟きが洩れたのはどのくらい経ってからであろうか。
「私のすることはすべて崩れてゆきます。かの地に建立こんりゅう しようとしている大仏は、今となっては何よりの鎮魂たましずめかも知れません」
安積という名を一言も口にせずに、いま、二人は若くして世を去った皇子のすべてを語り続けていたのであった。
2019/10/29
Next