~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
終  曲 (四)
を暗くしましょうか」
さりげなく元正は言った。
「梅の香がより身近になるkも知れません」
「私が、伯母上・・・」
聖武はみじから立って、室内の灯のいくつかを吹き消した。ほの暗くなった室内に、どこからともなく梅の香が漂ってきた。
ややあって、正元はたずねた。
「皇后は?」
「もちろん同行します。仲麻呂は一足先に発つとか申し出ております。今は皇后もひどく紫香楽の都造りに熱心なのです」
言いかけて聖武は奇妙なわらいを頬ににじませた。
「なあに、諸兄が難波遷都に熱心なのと同じことですよ」
ぎょっとして元正が見つめなおしたとき、その嗤いは、まだ頬にたゆたっていた。
── では、やはり、仲麻呂たちが安積を。
── そういうこともあり得るということです。彼らの行動が何よりもよくそれを示しています。そうはお思いになりませんか。
人間は時として、自分が全く望んでいないことを熱心にやるようなふりをして見せることがある。それが政治というものなのだ ── と聖武は言いたげだった。
元正は甥が妻である光明をも仲麻呂をも全く信じていないことを感じている。
このすざまじい孤独。人間崩壊・・・・。
── この日を見ようとして、私は甥を眺め続けてきたのだろうか。
たちまち虚空をつんざく笑い声が元正の耳を覆った。
── そうよ、そうよ、お姉さま。私はこの日を待っていたの。
ああ、妹の声だ。死せる者はむしろ自由だ。思うままに人を呪う事も出来る。が、生きている私は?
眼を閉じ、耳をふさぎたかった。紫香楽に旅立とうとしているこの甥の前途に暗い予感がする。が、何でそれを口に出して言えるだろう。それに時は過ぎている。殿舎に戻らねばならない。立ちかけた元正の背に軽く一礼して、聖武はささやいた。
「すべては終わったようでございますね」
き返すまでもなく、彼女は甥の言葉の意味を覚った。全ては終わった ── そうなのだ。前の年の五月、阿倍に五節の舞を舞わせるという形でなされた政治的妥協は、全く水の泡に帰したのだ。が、自分の徒労を嘆くよりも、元正は、いま、
── そうですとも!
甥にそう応えようとしている。
── それなら、私は阿倍を皇太子と認めることを撤回します。それでいいのですね。
振り返ったとき、ほっとした表情でかすかに微笑してうなずく聖武の顔がそこにあった。
二月二十四日、聖武は光明とともに紫香楽へ向けて出発した。天皇不在のまま、左大臣諸兄が難波遷都の勅命を宣言したのが二十六日、ついで三月十一日、例の大楯が宮門に立てられた。
天皇のいない遷都宣言という奇妙さからわざと顔をそむけ、儀式の完了を人一倍喜んでいるのは諸兄である。
「いや、めでたい、めでたい」
恭仁京に執着したことなどはすっかり忘れたような顔をしている。
「御苦労でありました。けいの努力を多とします」
型どおりの元正の褒詞ほうしにも、彼は飛び上がらんばかりの喜び方をした。
「臣の忠誠をよみみし給わりましたこと、この上の感激はございませぬ。臣が今日ありますのは、すべて太上帝の御仁慈によるものであります」
その眼はどうやら嘘はついていない。が、彼は紫香楽遷都を辛うじて阻止できたことを喜んでいるのだ。面目は保たれたのである。いや、それより、安積の謎の死の責任を逃れ得たと思って、彼は心を浮きたたせているのかも知れなかった。
  保里江尓波ほりえには 保多麻之可麻之乎たましかましを 大君乎おほきみを 美敷祢許我牟登みふねこがむと 可年弖之里勢波かねてしりせば
難波の堀江に舟遊びしたとき、諸兄の献じた歌だ。おいでとのことをかねて知っておりましたら、堀江に玉を敷きましたものを ── という歌には彼の心情が正直すごるほど、反映されていた。
2019/11/01
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