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~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
終  曲 (五)
紫香楽の大仏建立はなかなか捗らない。聖武があの日元正にささやいたように、光明や仲麻呂の献身はやはり見せかけにすぎなかった。結局、聖武は行基の協力を頼りに孤軍奮闘しなければならなかったのだ。
聖武から元正に、ぜひ大仏を見に来てほしい、という要請があったのは十月末、さりげない行楽への誘いに似て、それが本格的な紫香楽への移転を望むものだという事はすぐ解った。要請に応じるべきか否か、元正にはためらいがあったが、表面は行楽の形で難波を後に下。十一月半ばのことである。
紫香楽の地にみずから元正を出迎えた聖武は、早速大仏建立の進んでいる甲賀こうが寺に案内した。
「惜しいことでございました。もう数日早くお着きになれば、仏前の供養に御参列いただけましたのに・・・」
が、甲賀寺に着いたとき、輿こしを降りた元正は、その場に立ちすくんだ。
「あっ、これは・・・」
まるで半ば完成したように聖武が語っていた仏像は、どこにもなかった。あるのは、冬枯れの色を見せはじめた山を背景に、寒々と立つ一本の柱ばかり・・・・。
聖武は笑みを含んで元正に近づく。
「いかがでございます。みごとな仏像ではございませんか」
背筋に戦慄が走った。
── 甥の口走っているのは譫言うわごとか。それとも、もうこの人には幻覚しか見えなくなってしまっているのか・・・・
「なにはともあれ、宮中にお休みを。大上帝さまはお疲れでいらっしゃいましょうから」
とりつくろうように言う聖武付の侍女の言葉に救われる思いで、元正はその場を離れた。
案内された宮中の諸殿舎は、急拵きゅうごしらえの粗雑さの目立つ造りだった。その一つに案内され、くつろぎかけたところへ、早くも聖武は姿を見せた。
「形をつけただけの造りで、お気に召さないかも知れませんが・・・」
まともな挨拶をし、それから、悲し気な眼付になった。
「先ほどは驚きになったかも知れません。が、私の出来るのはあそこまでだったのです」
元正は急いで侍女を退さがらせた。その後でぽつりと聖武は言った。
「ひどい抵抗をうけております大仏を鋳上げる銅も思うように集まらない。その上、このところ周囲の山で頻々と不審火が燃え上がるのだという。
「これでは大仏を鋳上げる前に、たきぎとなる樹々はすべて灰になってしまうでしょう」
「まあ、それでは・・・」
「そうです。大仏を造らせまいとしているのです」
誰が、という言葉をぬきにしゃべっても、その意味はすぐ通じた。造営を妨害しているのは、ほかならぬ妻の光明と仲麻呂なのだ。彼らは顔には出さないが、自分たちの本拠である奈良帰還を狙っている。もしこの地に大仏が営まれてしまったら、聖武は生涯ここを離れまいとするだろう。それを阻止するためには、彼らはどんなことでもやりぬくだろう・・・・。
「私の出来るのはここまでです。御仏の中心に据えるべき御体骨ごたいこつの柱があれなのです。やっとここまで漕ぎつけ、法要もすませました」
言葉を切って、元正をみつめ、静かに聖武はそのすそにひれ伏した。
「伯母上、伯母上にだけはおわかりいただきたい。私がこの地に何としてでも、毘盧遮那びるしゃなの尊像を造り参らせたかったことを。そして、誰のために、何のために造りたかったかということも・・・」
急に細くなった甥のうなじに眼を落しながら、しばらく元正はじっとしていた。それから自らもひざまずいて甥の手をとった。
「お立ちなさい。さあ・・・何という冷たい手をしておいでなの」
やっと身を起こした聖武は手をとられたまま言った。
「伯母上、伯母上は見て下さいましたね、盧遮那仏を」
「ええ、見ましたとも」
握った手に力を入れて元正は答えた。
御眼おんまなこも、御唇おんくちも、はっきり見えました。私には」
そのとき外に皇后の訪れを告げる声があった。と、しゃをかけたように、聖武の表情は俄かに据え難いものになっていた。
2019/11/03
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