~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
うす あかね (一)
持統女帝が新都藤原京にうつったのは694年の冬のことだった。
新しい都のことを、氷高はずいぶん以前から聞かされていたような気がする。太政大臣高市たけち皇子 ── というより亡き父の異母兄であり、今では父代わりの伯父さまにあたるその人が、女帝の命を受けて着手したと聞いたのは、彼女が十一のときだったから、それから数えても、もう四年。いや、それよりも前、物心つくころから、
「新しい都」
という言葉は身辺でささやき続けられていた。
その都にいよいよ還る、と聞かされても、何だか実感が迫って来ないのは、あまりにも長い間、新しい都のことを聞かされ続けて来たからではないだろうか。
そう言うと、母の阿閉あへ皇女はうなずいた。
「何しろ、新しい都造りは、帝の長い間の念願でしたからね」
新宮殿へ運ぶ衣裳いしょう什器じゅうきについて、てきぱきと侍女たちを指図しながら母はさらに言う。
「いえ、帝の、というより、先の帝の時からの御計画だったのですよ」
先の帝 ── 天武は、現上帝の夫、そして氷高の祖父。
「お祖父じいさまのこと、そなたは覚えていて?」
「いえ、ほんの少ししか」
残念ながらそう答えるよりほかはない。祖父天武がこの世を去ったのは、氷高が七つの時。そのころは、同じ飛鳥の中でも、島の宮に母たちと共にいた彼女は、祖父とはめったに顔をあわせたことがなかった。
「お祖父さまは、お忙しすぎたから・・・・」
そなたの記憶がさだかでないのもやむを得ない、というふうに母はつぶやいた。そしてじつは、その呟きの中には、氷高のあずかり知らない様々の思いが込められていたのだった。
出兵の失敗、そして近江遷都、内戦 ──。まさに悪夢のごとき十余年だった。阿閉の少女時代は、この悪夢の中に塗りこめられていた、といっていい。
彼女が生まれた年、日本は朝鮮半島に出兵して大敗を喫した。新羅しらぎとうに攻められていた百済くだらを救うための出兵だったが、無残な負け方をして、結局大きな犠牲を払って兵を退いた。
それからが苦難の連続だった。斉明女帝はすでに世を去っており、この出兵の責任者である中大兄なかのおおえ(阿閉の父)は、国内の支持を得られず、それまでの政治の中心地であった飛鳥と絶縁して近江に都を遷し、しばらくして即位する。天智天皇である。何もわからぬままに、湖畔の風のきびしい大津の都へ連れて行かれた阿閉であったが、思えばそこで過ごした数年間は、少女の心にも異様な雰囲気に満ちたものだった。
まず急速に取り入れられた唐風趣味。それが敗戦国の、勝利者唐国への追随、迎合であったとは、成人して後にはじめて気づいたことである。もちろんこうした形の上での追随に唐軍がごまかされるわけもなく、大勢の兵士を派遣し、したたかに貢納物をむしり取っていったのであるが。
そのうち半島の情勢が変化した。親密だった唐と新羅の間に摩擦が生じたのだ。新羅は半島の支配を狙って進駐していた唐軍を排除すべく抵抗行動を起こした。
新羅が日本に協力を呼びかけるのはこの時だ、彼らがひそかに手をさしのべた相手は天智の弟、天武 ── 当時の大海人おおあま皇子だった。敗戦の責任問題にはじまって、近江での天智の新政に快く思わない諸勢力を頭においての働きかけである。日本は数百年にわたって半島との関係が深く、その時も唐より新羅に心を寄せる人々が多かった。こうした国際情勢を背景に、天武が天智亡き後の近江朝廷と対決したのが壬申の戦だ。唐寄りの路線を歩んでいた近江朝廷が亡んだ時、半島でも新羅は唐勢力の排除に成功していた。
2019/09/07
Next