~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
うす あかね (五)
氷高の弟の軽、妹の吉備は、新宮殿の何もかもが珍しくてたまらない。内廷には飛鳥のころと同じく、柱を土中に埋め込み、床を高くした板きの殿舎が並んでいるが、大極殿だいごくでんをはじめとする公的な殿舎は、礎石が柱を支え、屋根には重々しい瓦を葺いた建物に変わった。それまでは、わずかにいくつかの寺にだけ用いられていた瓦葺の建物が、ずらりと軒を並べているのは壮観だった。
それよりも幼い彼らを喜ばせたのは、あたりの山々のたたずまいである。
「え? あれが香具山かぐやま? こんな近くにあるの?」
皇子の軽はひしぎそうに言う。これまで香具山は飛鳥の宮の北、やや離れた所にあった。それが内廷の高殿のえんから見ると、南東に、それも大垣のしすぐ外側に見える。
「わあ、手を伸ばしたら届きそうだね、まるで」
今まで少し離れていた耳成山みみなしやまは、それこそ宮殿の真北のごく近くにあって、後からこの都を守ろうとしているかのようだ。そして、すそを長くひいて姿のいい畝傍山うねびやまは西南に・・・・あたかもこの三山にかかえられるような形で新都は造られていたのである。
持統女帝の遷都が終わると、九日には官人たちの拝朝が行われた。大極殿に臨んだ女帝の前に、諸官庁の役人たちが列立して遷都の詔を受け、喜びを言上ごんじょうする。ついで翌日、女帝から絹や布が下賜され、その後、高官を招いての宴が催されて、遷都に伴う行事は一段落した。
内廷での私的な宴が行われたのは、それから数日後のことであった。女帝から、高市に対してはとりわけ手厚いねぎらいの言葉があった。
「ほんとうに長い間、御苦労でありました」
口の重い女帝の言葉はいつも短い。が、そこには言葉以上のものが込められていることを、一座の人々はよく知っている。
高市は、天武が胸形君むなかたのきみ尼子あまこのいらつめとの間にもうけた皇子である。持統にとってはわが子とは呼びにくい存在だ。一方御名部と阿閉も異母妹だ。母どうしが同母の姉妹だったから、他の異母兄妹よりは親しいとはいえ、もし彼らが別々の人生を歩んでいたら、持統の人生はずっと淋しいものになっていたに違いない。
が、御名部が高市と結ばれ、阿閉がわが子草壁を夫にすることによって、一族の結束はぐっと強まった。とりわけ、天武、草壁亡き後、彼女が頼りにすべきは高市以外にはないのである。
「そなたの協力がなかったら、この都造りは未だ終わっていなかったでしょうね」
しみじみと言う女帝の言葉には、飾り気がないだけに、人々の胸を深くうった。
「なにしろ大がかりな仕事でしたから・・・・まだせねばならないことは多く残っております」
高市は謙虚に答える。
「でもあまり仕事をし過ぎて体を傷めないように・・・何だか少し顔色が悪くありませんか」
「御心配には及びません」
阿閉がうなずいて話の輪に加わった。
「ほんとうに皇子みこのお働きはみごとなものでした。こんな立派な宮殿ができて・・・この姿を、先帝にお見せしたかった」
語尾はふるえていた。
「そして亡き皇子にも・・・・」
壮麗な宮殿であればあるだけ、阿閉の悲しみは深い。新しい都造りを口癖にしていた天武と草壁が、この都にいないことが悔やまれるのである。豊麗な頬をつたう涙を、阿閉はぬぐおうともせず、はるか遠くをみつめていた。
2019/09/08
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