~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
夕映えの塔 (一)
ここは黄金の仏の国 ──。
異国ふうな獣身を刻んだ山田寺の金堂の石のきざはしを上るたび、氷高はそう思う。扉を開けると、黄金の光が眼にまばゆい。壁を埋める金箔きんぱく押しの塼仏せんぶつは幾百体あろうか。堂内にともされた御灯みあかしがゆれるたび、それは微妙に息づき、ときには袖を連ねてゆらめき舞うかのようであった。
これら小さな仏たちに荘厳しょうごんされ、仏国土ぶつこくどの中央に位置する丈六じょうろくの仏のみつめる全き宇宙とはいったい何なのか? 十六歳の身には手にあまることを、つい考えないではいられないほど、仏の眼差まなざししは深い。余分なためらいの一切を切り捨てた、眉から鼻梁びりょうにかけての明快な造型、そして豊かな頬。唇にはほのかな微笑さえもある。黄金の塼仏たちが、かすかにゆらめき舞い、そして声なき声で歌う賛歌に耳を傾けての微笑なのか・・・・。
いま現実に氷高がみみにするのは衆僧の読経の声だ。にわかな参詣ではあったが、阿閉あへ、氷高、長屋といった高貴な一族の来訪はいちはやくてらに伝えられて、堂内には、あかあかとがともされ、衆僧の祈りの声に満ちていた。
仏の前にぬかずく阿閉は、合掌し首を垂れたまま塑像のように動かない。
── 皇子高市たけちの全快を。
母と並んで仏前に合掌する氷高の眼裏まうらに、いま、一つの光景が浮かび上がってきている。ちょうど十年前、この仏像の開眼供養の行われた日のことだ。
── あれは三月も末のことだった。お母さまは今と同じように、この御仏の前で合掌していたっしゃった。そして私は六つ・・・・
中心に坐っていたのは、祖父の天武、そのきさきである祖母、つづいて若々しい面差おもざししの父草壁、そして母。皇子高市も、おの妻である伯母の御名部みなべも長屋もいた。
が、今は天武と父の草壁はこの世にいない。伯父の高市の病は重く、伯母はその枕頭ちんとうを離れる事すら出来ない。そして祖母はたった一人で政務を引き受けている。この十年の間に何という変わりようであろう。
灯影ほかげのまたたく度に、思いなしか黄金の仏たちも、頬を翳らせ、ひそかな吐息を洩らしているかのように見える。そして中央に端座する丈六の御仏みほとけのみは、いよいよ豊かに、さわやかに、宇宙の彼方かなたをみつめている。まるでとりつくところもないほどのこのおおきさ・・・・。微小な人間の悩みが、はたしてこの巨きな御仏の耳に届くのだろうか。
僧侶の読経の声がいよいよ昴まってきたにもかかわらず、氷高はしだいに絶望的になっていった。ついに心のおののきに耐え切れなくなって抜け出すと、御灯をともしてもほの暗かった堂内とは違って、外はやっと夕映えがはじまろうとしているところだった。淡い茜色を帯びはじめた空を背に、金堂の前には五重の塔がそそり立っている。
その塔の宝珠ほうしゅの彼方をよぎろうとしている雲もほのかに紅い。衆僧の声もいまは遠く、人影一つない寺域は、静謐せいひつの夕暮を迎えようとしている。思わず深い吐息を洩らしたとき、背後に人の近づく気配がした。沓音くつおとをたしかめるまでもなく従兄の長屋であることはすぐ知れた。やがてその手が肩に触れるのにまかせて、氷高は塔を見上げていた。
「疲れたの?」
長屋の声はやさしい。
「いいえ、ただ・・・」
言いさして口をつぐんだ氷高に、彼は静かにうなずいた。
「私も、あの御仏をみつめていられなかった」
氷高は空恐ろしいような気がした。
── 何と私と同じことを考えている人なのか・・・・
肩に手を置いたまま、空を見上げて、彼は呟くように言う。
「自分の心に翳りのある時、あの御仏の顔はまぶしすぎるのさ」
「・・・・」
「荘厳すぎる。完璧すぎる、といってもいいだろうな」
── この人は、私の心の中にあるものを、はっきり言い当ててくれた。私自身よりも明快な言葉で。いや、探ろうとして探り当てたのではない。まさに同じことを、同じ時に二人は考えていたのだ。
ふしぎな一致が氷高の心を震わせた。
その間にも夕映えは少しずつ色を深めていた。阿閉が姿を現したのはその時だ。
「これから七日間、不断の読経をするように法師たちに申しつけておきましたからね。長屋王、父君はきっとよくおなりになります」
幅の広い胸を反らせて言う阿閉の言葉は確信に満ちていた。いつも足取りはゆるく、たじろぎを見せないははであった。
しかし、その母が、
「そうですとも、高市皇子にはお元気になっていただかねばなりません」
と、言った時、ふと、その言葉の調子に彼女はこだわった。
── 私の耳は聞き誤りをしたのだろうか。
確信に満ちて聞えた母の声には、それ以上の何かがあったのではないだろうか? 豊かな白い頬を思わず見つめなおしたとき、
「私たちは、いま、やっとここまで来たのですもの」
母の瞳は塔の彼方をよぎる雲に向けられていた。
「まあ、美しい夕映え」
それから二人をふりかえった。
「あの塔の下に、何が埋めてあるか、そなたたちは知っていますか」
2019/09/09
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