~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
夕映えの塔 (二)
宝の塔だ ── と母は言った。
塔の心柱を支える礎石の底に碧玉をくりぬいた小さな瓶が納められている。その玉瓶の中には仏舎利ぶっしゃりが八粒 ──。
「その仏舎利はね、遠く海の彼方から送られてきたものなのですよ」
海の彼方 ──。それは氷高の想像を絶するところだった。
その碧玉の瓶は、純金のつぼに納められている。純金の壷は、さらに銀の壷に入れられ、さまざまな珠玉とともに、鍍金ときんの壷に納められた。さらにきらめくばかりの珠玉を入れたおおかなまりにこれを納めて、その上に塔は建てられた。
「まだ長屋王もそなたも生まれていない頃のことです。そう・・・私がそなたよりも幼い頃ですけれど、塔のいしずえにこれをお納めした時のことを、よく覚えています」
そして、それこそ、氷高の祖父 ── つまり現持統天皇の夫である天武が、治世の初年に、まず手がけた事業なのであった。
ではなぜ、かくまで鄭重ていちょうに、金銀財宝を施入して塔は建てられたのは?
それはこの塔が持統たちの祖父、蘇我そがの倉山田くらやまだ石川麻呂いしかわまろの追善供養のためのものだったのだからだ。
それも単なる追善ではない。彼はそれより二十数年前、謀反むほん人の汚名を着せられて、この仏前の前で非業の死を遂げている。塔の建立こんりゅうは、彼の名誉回復の意味を持つ。そしてそれこそ、天武治世の初年に当たって、まず何をいてもなすべき政治行為だったのである。
氷高は阿閉に語った。
「私たち姉妹は、御祖父おじいさまのことを忘れませんでした。そして御祖父さなを陥れた人たちのことも・・・・」
なぜならそこに宿命的な悲劇がからんでいたからだ。
系譜的なことに、ここでふれておこう。倉山田石川麻呂の娘のうち、遠智おちのいらつめめいのいらつめと呼ばれたこの二人は、天智がまだ中大兄なかのおおえ皇子といわれていた頃、そろってその妻となった。後に遠智娘に生まれたのが現帝持統(鸕野讃良うのさららの皇女ひめみこ)姪娘に生まれたのが、御名部(長屋の母)と阿閉だったのである。
政略結婚と言ってよいだろう。彼女たちの父と母を結びつけたのは、ひとえに政治情勢だったのだから。当時天皇家を支えていたの最有力豪族は蘇我氏 ── その権力は女帝の叔父の馬子うまこ、そして死後はその子蝦夷えみし、さらにしの子入鹿いるかへと伝えられていた。
倉山田石川麻呂もおなじく馬子の孫 ── つまりその父倉麻呂は蝦夷の兄弟であり、入鹿とは従兄弟いとこだった。肥大しすぎ、繁栄の極に達していた蘇我家は、そのころ内部分裂がはじまったのだ。倉山田石川麻呂の中にあったものは入鹿への親愛感よりもライバル意識であり、彼もまた虎視眈々こしたんたん、入鹿打倒の機をうかがっていた一人だった。
その彼と、現状に不満を持つ中大兄が結びつくのは自然のなりゆきであり、それが二人の娘が中大兄の妻となった理由である。入鹿を刺し、蝦夷を死に追いやった乙巳いついの変は、だから中大兄と倉山田石川麻呂の共同作戦でもあった。
が、入鹿討滅の数年後、両者の間に摩擦を生じた。当時王位についていたのは幸徳だが、その下で右大臣の要職にあった倉山田石川麻呂のことを、
「中大兄を害するつもりだ、謀反を企んでいる」
と密告する者があった。幸徳朝の都は難波なにわにあった。倉山田石川麻呂は危険を感じて故郷の飛鳥へ逃げ帰る。そのころ、この地の東北の山際の台地に、彼は寺を造っていたのだった。指揮にあたっていたのは長男の興志こごしだが、事情を聞いた彼はただちに戦闘準備に入ろうとした。しかし父はそれをとどめて言った。
「自分がこの寺に戻って来たのは、安らかに死なんがためだ」
と言って、金堂の前の礼拝石の所で自殺し、妻子もその後を追った。幸徳側の軍勢が飛鳥に到達する前に、その一族はすべて命を絶っていたが、攻め手は死んだ倉山田石川麻呂の首をねて帰っていった。遠智娘が産んだ鸕野皇女ふぁたった五歳の時のことである。まだ御名部も阿閉も生まれてはいなかった・・・・。
が、彼女たちは知っている。中大兄のきさきであるゆえに、生き残った母たちの前に待ち受けていたのは死よりも辛い日々だったことを・・・・。
謀反人の娘たちは人眼を避けて生きねばならなかった。倉山田石川麻呂が世を去ると、中大兄の側には次々と若いきさきが登場した。
塔を見あげたまま、それらの日々を思い出すように阿閉は言う。
「私たちは、そのことを決して忘れはしません。お母さまたちは、悲しみの中に死んでゆかれたのです」
それから二人を顧みて、毅然きぜんとして言った。
「無実なのです。お祖父さまは謀反など企んではおられなかったのです。でもいつわりの告げ口をした者がいて・・・」
「それは誰です」
氷高は思わずそう叫んでいた。
「その人をお母さまはご存じなのでしょう」
「知っています」
次の言葉を待つ氷高には答えず、阿閉は中門の方へゆっくり歩みはじめていた。その白い頬にふしぎな翳のよぎりのを、氷高は見たように思った。
2019/09/10
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