~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
夕映えの塔 (三)
寺山田では南から北に向かって、中門、塔、金堂が一直線に並び、連子窓れんじまどをはめこんだ回廊の白い壁が、それらの建物をぐるりと囲んでいる。
阿閉は友人ともびとの待つ中門の外には出ず、静かにその回廊を歩いている。蒼灰色を帯びた回廊の白壁にも、夕映えの色はにじみ、無言で歩く二人の影は長い。
回廊の東南の角を少し曲がったところで、阿閉は歩みを止めた。
「ごらんなさい。ここから塔を見るのが私はいちばんすきなのです」
黒々とそそり立つ塔を仰いで彼女は呟いた。
「お祖父さまの御生前には、まだ塔はありませんでしたけれど」
氷高は母の言葉を遮った。
「それよりもお母さま、私は讒言ざんげんした人の名を知りたいのです」
「・・・・」
あきらかに母の頬にはためらいがあった。
「教えてくださいませ、ぜひ」
沈黙の時が流れ、夕映えがいよいよ色濃くなったとき、阿閉はやっと口を開いた。
「お祖父さまの異母弟おようとです」
「異母弟?」
「そうです、蘇我そがの日向ひむか、軍を率いて攻めに来たのもその日向でした」
倉山田石川麻呂が、蝦夷、入鹿を倒したとき、すでに異母兄弟の間で内部分裂がはじまっていたのであった。
「ではなぜ、その時、それが無実だと、日向の讒言だとおっしゃらなかってのでしょう」
阿閉の頬の苦悩の翳が深まった。
「言っても無駄でした。お祖父様は絶望しておられたのです」
「なぜ」
「無実であることを信じてくれるはずの方に、すでに裏切られていましたから」
「それは誰です」
「・・・・」
頬をそむけた母を、なおも氷高は問いつめた。
「裏切ったのは誰です」
夕映えが血のように紅くなった。前よりさらに深い沈黙の後、やっと阿閉は口を開いた。
「私たちのお父さまです」
「えっ」
「中大兄皇子です」
氷高は絶句した。血族の中にからみあうこの愛憎の深さ! その血がいま自分の中にも流れている、という思いが、氷高の胸を凍りつかせた。
倉山田石川麻呂の死後、中大兄はその無実を知って深く悩んだという。日向は筑紫の大宰帥だざいのそつに任じられるという形で配流はいるされた。
── 夫の中大兄が、初めから父の無実を信じていたら、この事件は起こらなかった。
しかし、事件はそもそもでっちあげであり、中大兄は、がじめからそこに加わっていたのだ。彼はわあざと、の謀反を信じるふりをしたが、それに対する反感の強いことを知ると、後悔するふりをし、埋めあわせのように残された娘たちを愛撫あいぶしてみせもした。
娘たちは、それがいつわりのしぐさであることを、女の本能でぎ当てていた。だから御名部も阿閉も、いつわりの愛の所産でしかなかったともいえる。夫に対する不信、父の異母弟たちへの不信 ──。日向は流されたが、もう一人の異母弟赤兄あかえは、二人の兄の失脚を幸い、中大兄の傍に娘を入れ、やがて肩で風を切って歩きはじめた。
このすさまじい不信の世界の中で、二人の娘は肩を寄せ合ってわが子を育て続けた。が、遠智娘は力尽きたように男児を産んで間もなく死ぬ(この皇子は口がきけず八歳でしぬのであるが)。そして姪娘も・・・・。彼女たちが死んだ時、母の違う遺児たちも肩を寄せ合って生きるよりほかはなかった。父とも呼べない父を遠くに眺めながら・・・・。
── まあ、この明るいお母さまが・・・・
信じられないことだと氷高は息を呑む。それに応えるように阿閉はゆっくりとうなずく。
「不遇の中で人間はつよくなるのです」
2019/09/11
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