~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
夕映えの塔 (四)
聞くべきでなかったかも知れない。が、このとき氷高は聞かずにはいられなかった。
「お母さま、では、お母さまは、中大兄さまを、父君を恨んでいらっしゃるの?」
「恨む?」
阿閉は微笑して首を振った。
「恨んではいないでしょうね。ただ私たちはお母さまたちの悲しみを忘れないだけ。それに、大きくなるとさまざまなことがわかってきましたから・・・・」
長ずるに及んで鸕野や御名部の知ったのは、父のおかれた政治的環境である。父中大兄には心を許した臣下がいた。彼の助言は大きく中大兄の政治路線を左右している。
その人の名は藤原鎌足 ──。
古代国家成立を推進した功労者でもあるが、その胸の底に巣くうものも、彼女たちの眼には自然と映ってくる。
孤児独特の鋭い勘かもしれない。鎌足は確かに巨人だ。権謀の才もずば抜けている。娘たちはこの巨人が蘇我一族に向ける冷たい眼を敏感に感じ取った。
彼女たちの祖父、倉山田石川麻呂と中大兄を結びつけたのも鎌足の策略だったようだが、その仲を引裂いたのも、彼の謀略に違いない。祖父と日向の対立は彼の望むところだったろうし、残った赤兄も、ときに鎌足にきりきり舞いさせられている。
そうして鎌足が望んだものは? 中大兄の子、大友皇子と、わが娘耳面媛の結婚だった。抜け目のない鎌足は、もちろん中大兄の弟大海(のちの天武)にも娘を近づけていたが、彼の真に望んでいたのは大友皇子の即位ではなかったか。
が、その夢を果たせぬまま鎌足は死ぬ。中大兄が即位して天智帝となって二年目のことである。
そして鎌足の亡き後もまるで天智は鎌足の霊に操られるかのように、大友をしだいに政治の中心に引き出してきた。
蘇我の血をひく娘たちにとって、これは許せないことだった。そもそも大友皇子の母は、伊賀の采女、宅子娘で蘇我の血は入っていない。しかも藤原氏の娘をきさきの一人とするこの皇子が即位するとすれば、蘇我堅塩媛が欽明のきさきとなって以来、固く結びついてきた天皇家と蘇我との間は絶たれてしまうではないか。
── そんなことを許しはしない。
人一倍強くそう思ったのは鸕野だった。すでに大海人の妻となっていた彼女が、近江廷と袂を分かち、病める父天智をおいて、夫とともに吉野に籠った最大の理由の一つはここにある。続いて起こる壬申の戦には複雑な国際関係がからんでいたことはすでに触れたが、彼女たちは、もう一つの意味をこの戦いに込めていたのである。
してみれば飛鳥に帰還した天武が、まず最初に手掛けたのが山田寺の復興だったことは当然といってもいい。蘇我の故地に都が戻り、蘇我の血をひく鸕野は皇后になったのである。
寺はすでに荒れていた。倉山田石川麻呂が死んでから、二十数年の歳月が流れている。天智は在世中、形ばかり山田寺再興を言いだしてはいるが、それは反対勢力をなだめるための手段にすぎず、実際には着手したのは天武だった。
この時は倉山田石川麻呂の造った金堂にも新築同様に手が加えられた。金箔を押した塼仏が壁を飾るようになったのもそのころである。丈六仏が鋳はじめられたのは、六七八年、そして開眼供養が行われたのが六八五年、六歳だった氷高の憶えているのはその光景だが、三月二十五日という日が、まさに倉山田石川麻呂の自刎したその日だったことを、いま、はじめて氷高は母の口から聞いた。
死後満三十六年、倉山田石川麻呂の冤罪はまさしくすすがれたのである。丈六の仏は、この飛鳥のどの寺のものより大きかった。推古女帝の時代に造顕された法興寺(飛鳥寺)の仏像は人の目を奪うほどの大きさだったが、山田寺のはさらに大きく輝かしい。法興寺が馬子から蝦夷、入鹿一族の栄光をたたえた寺田とすれば、これを上まわる荘厳な倉山田石川麻呂の寺が出現したのである。
彼の孫娘たちの忍耐は遂に報われたのだ。いまは誰にも憚ることなく、この寺の豪奢な存在を誇ってよいのである。天武はそのころ薬師寺の造営にとりかかっているが、まだ完成をみていない。
開眼供養を終えた翌年、天武は病床に臥し九月九日他界した。そしてやがて草壁も・・・・。
倉山田石川麻呂の名誉回復が行われたのもつかのま、今度は病魔が彼らの周辺を次々襲いはじめたのだ。
2019/09/11
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