~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
黄 菊 の (一)
高市たけちの皇子みこの葬礼は、いかめしく、かつ荘重をきわめたものとなった。太政大臣だじょうだいじんとはいえ、老齢に近づきつつあった女帝持統の共同統治者であり、かつ、後継者とみなされていた人物のほふりの儀式であってみれば、前皇太子草壁のそれに匹敵する荘重さで行われたのも当然ことだったかも知れない。
挂文かけまくも 忌之伎鴨ゆゆしきかも 言久母いはまくも 綾尓あやに畏伎かしこき・・・・
柿本人麻呂の挽歌ばんかは、彼の詩才のすべてを尽くしたかと思われる長大なものだった。それでも彼はこの有能な皇子の死をいたみ尽くせない、といった面持ちで殯宮あらきのみやにこの歌を捧げたのだったが、この重々しさ、いかめしさを、
── 凶々まがまがしいまでに・・・・
と、氷高ひだかが思ったのはなぜか。あまりにもいかめしすぎる葬りの式が、悲しみを通りこした凶々しさをもって迫って来た理由をつきちめれば、葬礼の前夜、彼女が、一瞬受け止めたp祖母さま ── 持統上帝の視線に雪ついてしまうだろう。
高市の死の前後、持統は人前では、ほとんど動揺を見せなかった。
── 人の死? ええ、私は、さまざまな死を着てきましたから・・・・
あたかもっそういうごとく、彼女は冷静に高市の臨終の知らせを受け止め、冷たすぎるほどの平静さをもって、葬儀についての指示を与えた。風にも嵐にも、来るものには胸を反らせて立ち向かうというような毅然とした祖母の、いわおのような姿を、ひめみこ氷高はそこに見た。
が、内廷に戻ったその夜、限られた肉親の夕餉ゆうげの席に臨んだ祖母の眼は、むしろうつろだった。胸を張り、ゆるやかな歩みで席につく物腰には昼間見せた威厳が保たれてはいたが、卓にひじをつくと、両の掌の中に額を埋めて、しばらくは声も出さなかった。
そして、卓に置かれた燭が、風を吸って、ほの暗く揺らめいたとき、吐息のように、祖母は言ったのである。
「私の思ったことは、ことごとくはずれてゆきます」
籍の連なる氷高の母、阿閉あへ、そして三人の子供たち・・・・一座には、せきとして声を放つ者はなかった。その中で燭のみが静かにほのおを伸び縮みさせていた。
「世の中では、この私を運の強い女だと思っているようですけれど・・・・」
祖母は、ひとりごとのように言った。
「でも、私にはそうはおもえません」
帝王の威厳を洗い落とした、むしろ弱々しさをさらけだして、祖母は阿閉を見つめながら言った。
「私は吾子あこ(草壁)とそなたに、私たちの後を託するつもりでした。でも吾子は私をおいて逝ってしまいました。そしてその次に望みをかけたのが高市と御名部みなべでしたのに・・・・」
ふたたび両の掌に額をあずけて、祖母は呟いた。
「でも、高市も逝ってしまいました。私たち姉妹は、みな夫を奪われてしまったのです」
持統は夫の天武に先立たれた、。異母妹の阿閉は草壁に、そして今度は阿閉の同母姉の御名部が高市に・・・・。いずれも天寿を全うした死とはいえなかった。蘇我そがの倉山田くらやまだ石川麻呂いしかわまろの孫たち ── つねに天皇家の傍にきさきとしてあった、尊貴な蘇我氏の知を引く彼女たちを三たび襲った運命は、ただの偶然だったのであろうか。
さすがに女帝持統もいまは迷う。壬申じんしんの戦を乗りきり、男勝りの度胸を持つ彼女のたじろぎを、氷高はその夜、見てしまったのである。
ややあって、祖母は掌を離した。しいて背筋を伸ばして、ゆっくりした口調で人々を見廻しながら言った。
「私たちは、倉山田石川麻呂さまの御無念を晴らしたい一念で生きてきました。こうして飛鳥の地へ都は戻り、わたしはきさきになり、蘇我の家の栄は戻りました。山田の御寺みてらもみごとに造られ、望みを達したとみいえます。でも ──」
栄光は常に不運に縁どられるのか、それとも・・・・。せめぎあう孝と不幸をかかえて、この先どういう道を辿たどるべきか。
氷高は、偉大であり過ぎる祖母を、やっと少し理解しかけたような気がした。そして、そのときである。祖母の、はがねの如くきびしく、それでいて、一抹の温かさと、蒼い海のようなやさしさをたたえた視線が、氷高に投じられ、あっと気づく間もなく、静かに離れていったのは・・・・。
氷高は、すみれ色の瞳で一瞬祖母の視線を追ったが、祖母の視線は、二度と彼女のもとには帰って来なかった。
祖母は母に向かって、呟くように言っていた。
「ここが、むずかしいところです。私たちはよく考えなければなりません」
が、胸を打つのは、その言葉ではなかった。激しく氷高のおもをかすめ、一瞬にして去ったその視線が、今もはりのごとく彼女の胸を刺し貫いている。
「お食事を召しあがりませんか」
母の阿閉にうながされて、祖母は表情をやわらげた。
「鈴を振って下さい。食事のあとで、御名部も呼んで話をしましょう」
鈴の音を待ち受けていたかのように現れたのは、氷高の弟、皇子かるの忠実な乳母、あがたの犬養いぬがい美千代みちよであった。
食卓にある間、氷高は全く無言だった。すみれ色の瞳は、長いまつげに蔽われて伏せられ、二度と祖母や母の顔を見ることはなかった。
翌日、葬礼の座にあって、行われる儀式の数々を、凶々しいほどの荘重さと感じながらも、氷高は、昨夜の祖母の視線のことを考え続けていた。
2019/09/12
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