~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
黄 菊 の (二)
未来図 ──。
もしそのようなものがあるとしたら、ひめのみこ氷高が祖母と視線をあわせたとき、ふとみてしまったものは、そのようなものであったのかも知れない。
たった一瞬のことだったけれど、彼女は祖母の眼差の中に、無言の言葉を読み取ったような気がしたのだ。
祖母と、祖父の天武。母と父の草壁、伯母の御名部と高市 ──。その構図の延長にあるのは? それはわが身と長屋、それしかないではないか・・・・。
凶々しい未来図だ。
幻のように重ねあわされるのは、またしても葬りの儀式・・・・。それは、いま行われている高市のそれではなく、長屋の。
いえ、いけない。そのようなことがあってはならない。
ふと思い出されるのは、母、阿閉のかつての言葉である。
夕占問ゆげどいというのを知っていますね」
その女の言ったといわれるおそるべき運命・・・・。
それが何であるか、いま氷高ははっきりわかるような気がした。
──長屋王を愛してはいけない、ということなのだわ。
すぐ近くに座を占める長屋の整った横顔を氷高は見まいとした。
── もしも、私が、ほんとうに愛しているとしたら、決して、宿命の渦にこの人を引き込んでしまってはいけないのだわ。
が、さしあたって、高市の死後、祖母はどのような政治布石と未来図を抱えているのか、昨夜、氷高、軽、吉備たちが退さがったのと入れ替わりに、ひそかに呼び迎えられた御名部や母や祖母の間で、どのような話し合いが行われたかは知るよ由もなかった。
日をおいて行われた高市の後継者を決定する会議はかなり紛糾した。女帝持統がはじめ、具体的な提案をせず、有力な皇族、重臣たちに論議を尽くすことを命じたからである。
「高市皇子が亡くなられた以上、当然その弟である天武系の諸皇子の中から後継者を出すべきだ」
こう強力に主張したのは、みずからも天武の皇子であった弓削ゆげであった。もっとも彼が執拗にこの主張をくり返したのは、自らの野望のためというよりも、彼の同母兄であるながの皇子みこをその座につけたかったかららしい。
もちろんこれには反論も出る。それぞれの腹の探りあい、駆け引きが行われ、会議は一度では終わらなかった。
二度、三度、続けられた会議の模様は、もちろん氷高の知るところではない。十七歳の皇女にすぎない彼女はその席には連なっていなかったからだ。
そして数国後。
「ひめみこさま」
慌しい沓音くつおとが、氷高の許へ会議の結論を伝えて来た。
「軽皇子さまでございます、お後継は」
満面に笑みを湛えて、そう告げたのは、皇子の乳母、県犬養美千代だった。
「まあ、皇子が?・・・」
「左様でございますとも、お喜びくださいませ、ひめみこさま」
美千代はそわそわし、一瞬でもじっとしていられない、というふうに、青いのすそをしきりに揺らせた。
「そう、でも、皇子はまだ十四。皇太子になられるのは、荷が重過ぎない?」
氷高はむしろ落ち着いていた。この決定の前後にあるものを、もう少し知りたい、と思った。美千代はうなずきながら言う。
「ええ、左様でございます。ですから。いずれ、ということで、いましばらくは女帝さまが万機ばんきをごらんになります」
「おひとりで?」
「はい」
「それは大変ねえ」
「ええ、でも、そのうち皇子さまも大きくなられますし、阿閉さまが、女帝さまの片腕として、皇子さまとともに・・・・」
「お母さまが」
「はい」
そうだったのか ── と複雑な思いで、氷高はその決定を受け止めた。
2019/09/12
Next