~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
黄 菊 の (三)
会議のなりゆきについて、その数日後、さらに詳しい報告をしてくれたのも美千代である。
「いろいろのお後継になりたい方が多くて大変だったそうでございますよ」
「そうでしょうね」
「そのとき、一番いいことを言ったのは、誰だとお思いになります?」
「さあ」
葛野王かどどのおう ── ご存知でいらっしゃいますか」
「ああ、あの十市とおちさまの・・・・」
氷高はその名を聞いて、ちょっと翳りのある、およなしい貴公子の横顔を思い出した。
葛野王 ── 彼もまた宿命のの一人である。父は壬申の戦で非業の死を遂げた大友おおともの皇子みこ(天智の皇子)、母は歌人額田ぬかたのおおきみが天武との間にもうけた十市皇女。母十市はその宿命にもまれ、戦後、葛野を連れて飛鳥へ戻った。戦が起こったとき、まだ四歳の幼児にすぎなかった葛野は、その後、母をも見送って、いま、二十八歳の青年貴族として、治部卿じぶきょうの席にある。
「あの葛野王ご申しましたそうな」
美千代は眼をきらきらさせて言った。紛糾する一座を見渡して、彼は涼やかな声でこう言ったのだという。
「弟が兄を継ぐのもよろしい。が、それでは、またそのことから壬申の折のような争いが生じてもよろしいということですな」
葛野王という運命兒の一言には、人の心をどきりとさせるほどのものを含んでいた。
── あなた方は、もう一度、壬申の戦を起こそうというのか。そして、私のような人間を、もう一度この世に送り出したいのか。
天武の皇子、六人、天智の皇子、一人。葛野王のような皇孫の世代十数人。その座にあった誰も、暗い記憶を呼び起こすその言葉に、遂に反駁はんばくすることが出来なかった・・・・。
それでも弓削皇子は、
「いや、そういうつもりではないのだが」
辛うじて口を開いた。が、葛野王は弓削へゆっくりと眼差を向けた。それはあくまで物静かでありながら、無言で白刃をつきつけてくるような迫力を持ち、こう言いかけているようだったという。
── それでも、と言われるのか。あなたが後継者になりたいと言うのなら、私にも十分その資格はある。相手になってやってもいいぞ。
弓削葛野の祖母、額田とも親交のあった皇子である。それだけに親しみの交じり合った凄味すごみのある笑みは、弓削の唇を閉じさせるに十分だった。
人々の沈黙をたしかめてから、葛野は言った。
「さ、この問題はこれで終わりにしよう。後継者はもうすでに決まっている」
「何だって」
一座はざわめいた。
「今っていないからこそ、こうして我々は話し合っているのじゃないか」
「そうかな」
葛野はもう一度、あたりを見廻してから言った。
「いや、これは、皆が何と言うか、はらの中にあるものをさらけ出させるために行われた集まりじゃなかったのかね」
一座がぎくりとしたとき、、葛野はとどめを刺すように微笑し、それから女帝に一礼した。
「後継者は天意に従うべきかと存じます。女帝のお耳に天は何とささやかれたか、それを承らせて頂きたい」
2019/09/13
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