闇 深 け れ ば (一) |
その人のやさしい息づかいが、からだ全体に伝わって来る。そっと双の頬を包んでくれる温かい手・・・・。こんなにも身近に異性に寄り添って立ったことは、はじめてだった。
ひめみこ氷高は、白い頬を長屋ながやの手にあずけて眼を閉じている。内廷を蔽う闇は深ければ深いほどいい。雲の垂れこめたその夜の闇の中を流星のように尾を引いて、ひとすじの時が流れていった。
たしかに流星の光芒こうぼうに似た捉とらえどころのない一瞬だったが、二人が初めて唇をあわせてしまったその時のことを、多分一生忘れないだろうと氷高は思った。長屋が奪ったのではない、彼女が許したのでもない。ごく自然に寄り添った時、闇の中を走り抜ける光芒に二人は捉えられたのだ。
頬を挟んでいた長屋の手が、そのまま氷高の肩へとすべった。
「寒くない?」
「いえ、ちっとも」
「おそくなってしまいましたね」
十一月の末、日の暮れるのは早かった。長屋の母の御名部みなべ(氷高の伯母)をたずねての帰り、闇を気づかった長屋が、内廷まで送ってくれたのも当然のことだったし、その闇が二人に時を与えてくれたのも自然のなりゆきだった。
「これ、かけてあげよう」
長屋は表着うわぎを脱いで氷高の肩にかけた。ふうわりと肩を覆った衣きぬの上から、長屋は彼女をそっと抱いた。が、その指が肩から胸へとすべってきたとき、思わず氷高は長屋の手をはねのけていた。
長屋は、はっとしたらしい。
「許してくれる?」
長身をかがめて顔をのぞきこむようにするのに、氷高はかすかにかぶりをふった。
── そうではないの。
できればそう言いたかった。瞬間自分でも思いがけない疼うずきが乳房に走ったのを、長屋に知られたくなかったのだ。
しばらくためらいを見せてから、真剣な口調で長屋は言った。
「母宮のお許しは得られるだろうか」
氷高の母である阿閉皇女あへのひめみこの意向は、二人の結婚について大きな意味を持つ。恋しあった男女が結ばれるとき、まず女の母の許しを得るのが当時のしきたりだったからである。
「もちろん、いますぐでなくてもいい。私だって父君の喪に服していることだから」
その父、高市たけちの死こそが、二人の魂を急速に近づけたとも言える。
「何によっても埋め尽くされない空洞が胸の中にできてしまった」
感じやすい青年はこう言い、
「私はあなたへの心づかいが足りなかった。あなたは十歳とおのとき、父君を失っていられるのに・・・・」
むしろわびるような眼差しを向けた。
「いえ、私は幼すぎて、死の意味がわかりませんでしたもの」
と言う氷高に、
「そういうあなたのいじらしさに気づかなんだことが悔やまれるんだ」
長屋は悲しそうにそう言うのだった。氷高はいま、彼の寂しさを分け持つのは自分しかいない、という気さえしている。寂しさを知ることは人生の深みに気づくことだ、その寂しさを分かちあうというのは、傷を舐なめあうことではない。が、寂しさを知ったとき、愛は、むしろ勁つよいものになる・・・・。十七歳の氷高はおぼろげながら、そう思いはじめていたのだった。
── 流星の光芒に似た瞬間に、お互いそれをたしかめあった。
という気がした。どちらからともなくうなずきあい、肩を寄せ合って歩みはじめたとき、行く手の闇がちらと揺れた。その中で、おぼろげに二つの影が重なり、もつれ合ったかと思うと、さらりと離れた。足音を忍ばせるようにして門外に向かったのは男の影 ──。
とある柱の影に身をひそめ、息をつめて見守っていた二人は、一方の影が、ゆるやかな足取りで内廷の奥に向かうのを見た。よくある女官と官人とのしのびあい ── とすれば珍しくもない光景だったが、女の影に眼をこらしていた長屋は、そっとささやくように言った。
「
県
あがたの
犬養美千
いぬかいのみちよ
代じゃない? あの影は」
氷高の眼はそこまで確かめられなかった。
「そうかしら」
首をかしげながら、彼女はふとたじろぐ。その影が、身をひるがえした時、一瞬、
噎
む
せるばかりの女の香をあたりにふりまいたからである。闇がその時だけ、華やかな色どりに輝いた、と思ったのは錯覚だったろうか。
── あれがもし、三千代だったとしたら。
氷高はさらに首をかしげる。三千代の夫の
美努
みぬ
王は、いまは筑紫の任地にいるはずだからだ。
二人の間には、
葛城
かつらき
王、
佐為
さい
王、
牟漏
むろ
女王 の三人の子がある。美努王は
敏達
びたつ
系の血をひく人物で、天皇家との血縁はきわめて薄い。ただ父の
栗隈
くるくま
王が、壬申の戦の折に近江に味方しなかったことから、天武朝になって官界に進出するようになった。一方、県犬養の一族も壬申の戦の折には天武方として活躍している。三千代が
後宮
こうきゅう
に出仕したのもそのためで、そうした男女が結ばれるのは珍しい事ではなかった。
美努王がいま都に居ないとすれば、あの男の影はいったい誰なのか。いや、いったいあれは三千代なのか? 自分が乳母として育てた
軽
かる
皇子が持統女帝の後継者と決まって以来、三千代の貫禄はとみに加わった。一瞬まばゆいばかりの女の香をまきちらしたあの影は、その三千代と重なるようでもあり、重ならないようでもあった。
「じゃ、気をつけて、今度会えるのはいつ?」
額にそっとくちづけしてくれた背の高いその人をふり仰いだ時、雲間にきらりと光るものを見たように氷高には思えた。
── あ、極北の星。
身を震わせて顔を伏せた。
その光を見まいとした。
── なぜこんな時に、その光を見てしまったのか。
長屋の問いに答えもせず、氷高は身をひるがえして走りだしていた。なぜ突然体を引き
剥
は
がすようにしていってしまうのか ── と、もの問いげに立ち尽くす彼の瞳を意識しながら・・・・。
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