~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
闇 深 け れ ば (二)
やはり虹色の夢を見すぎていたのだろうか。
数日後、長屋のことを打ちあけ、許しを求めた時、母、阿閉皇女の反応は覚悟していた以上にきびしいものだった。
「覚えているでしょうね、氷高。三年前に私が言ったことを」
夕占問ゆうけどいのこと?」
「そう」
母が若い時、夕占問の女が言った言葉を氷高は忘れはしない。
が、すみれ色のかげを瞳に走らせて、氷高はひるまず母をみつめて言った。
「でも、お母さまは、あの時おっしゃったわ。夕占問なんてあまり信じないって」
「ええ、言いました」
「だから私も信じないの」
母はゆっくりうなずいた。
「でも、私は言ったはずよ。信じないけれど、そなたたちが不幸になることは防ぎたいって」
「・・・・」
「不幸よりも、むしろ栄光を望みたいとも言ったわね」
「ええ、でも、お母さま」
氷高は母から眼を逸らさなかった。
「私は栄光なんて欲しくないの。私はそういうことに向いてはいないの」
母の豊かな腕が氷高の肩におかれた。
「栄光、それは苦しみ・・・・。そう言ったのを覚えていて? でも苦しみは不幸ではないのよ」
「・・・・」
「それより氷高」
母の声には、むしろおごそかとでもいうべき響きがあった。
「あのとき、私が最後に言った言葉を覚えているでしょうね」
「・・・・」
「私たち、蘇我の娘たちには、どのみち平坦な生涯は許されていないのだって、私は言ったはずよ」
母は自分の言葉をわが手で受けとめるようにうなずいてから続けた。
「そうなの、そのとおりなの。むしろ今までは珍しく静かな日が続いたのだわ。でも」
今度は母が氷高をみつめる番であった。
「もう、その静かさは許されなくなってきているのよ、氷高」
「まあ・・・・」
息をんだ時、氷高は恐るべき言葉を母の口から聞いてしまったのだ。
「帝が・・・・おからだをこわしていらっしゃるの。まだ誰にも言っていないことだけれど」
持統女帝は、二十数年困難な政局と闘い続けて来た。その疲れがいま出はじめたのだろうか。
気丈なだけに、いっこうにその素振りは見せないが、異母妹である阿閉には、その不調がはっきりわかる。軽皇子が後継者に決まったとはいえ、まだ十四の少年に過ぎない。
「それに今、むずかしい問題がいろいろ起こりかけているの」
絶対に持統に健康でいてもらわねば困るし、まだその不調を誰にも知らせてはならないのだ、と母は語った。
「そのことを思いあわせると、私は長屋とそなたのことを今許すわけにはいかないの。そりゃあ、長屋はすぐれた若者だけれど・・・・」
終わりの言葉はつぶやきに近くなっていた。
長屋の父の喪があけるのは来年七月。その時までに政情がどう変化しているか・・・・。
母の言葉が終わらないうちに、氷高の頬からは血の色が失せていた。
「お母さま、そんなにお祖母ばあさまのお体の具合はよくないの?」
無言でうなずいてから母は低い声で言った。
「御気丈な方だから、よもやとは思うけれど・・・・。でもいつまで帝位についていらっしゃれるかしら。せめて二、三年、皇子がもう少し大人になるまでこのままでいらっしゃれるといいのだけれど」
国際情勢もむずかしいところにきている。それに、軽皇子が後継者に決まった時の会議でみたとおり、今度の決定に承服しがたい思いを抱く勢力も少なくない。いや、気丈な女帝なればこそ保ち得ている現在の平和なのだ・・・・。
すべて氷高には、初めて聞くことばかりだった。
持統の体力の衰えた今、その困難な状況を引き継ぐのは母の阿閉と弟の軽 ──。とすれば否応なしに自分もその渦の中に巻き込まれるほかはないのか。
壬申の戦以来いままで保たれた平和はむしろ稀有けうのものなのだ、と母は語った。しかし、人々はその平和にれ、血みどろな昔を忘れてしまっている。戦を知らない世代が育ち、ともすれば壬申の功臣たちを古めかしい頭の持主だ、とけなしつける気風さえ出て来ている。その中をどう乗り切って行くかはむずかしい課題なのだ。
そう聞かされた今、氷高は答えるべき言葉を持たなかった。
が、そうかといって、いま長屋との結婚をあきらめることが出来るだろうか?
ふと、三年前のことが思い浮かんだ。誰とも知らぬ人から相聞の歌を贈られたことが、夕占問の話を聞くきっかけになった。そして、わが宿命が、中天に輝く極北の星、と聞かされたのもその時だった・・・・。
先夜、氷高はその極北の星を見ることを避けた。が、否応なしに、その星を見つめて生きてゆかねばならない日が近づきつつあるような気がする。
── が、いま、あの星をみつめる勇気は私にはない。
氷高は心の中でそう呟かざるを得ない。
── 私の胸からあの方の存在を消すことが出来るだろうか。いえ、決して・・・。それは決して出来ないことだわ。
2019/09/14
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