~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
渦 紋 (一)
藤原京の右京八条 ──。ここ薬師寺の地では、この夏工匠たちの動きが、にわかに慌しくなりはじめた。女帝持統の治世中、この寺の堂塔の整備、仏像の造顕は絶えず続けられていたのだが、中でも精魂込めて造られつつあった薬師三尊の完成が突然急がされるにいたったのは、女帝の健康が目に見えて衰えはじめたからである。
「一日も早く造りまいらせるように」
病める人々を救う薬師の像であればなおさらのこと、その前にぬかずいて上帝の健康回復を祈りたい ── 切なる願いももって完成の日を心待ちにしているのは、阿閉あへ ──。これまでいくつかの難局を乗りこえて来た異母姉持統のまれにみる政治的資質を、彼女は誰よりもよく知っている。
持統に限らず、蘇我の血を引く女たちのうち、中心の一人は、いつも大豪族蘇我氏の大黒柱 ── 大家おおとじとして一族を支えて来た。天皇家と結ばれた形でみるなら、それは皇后であり母后ぼこうだった。この伝統は堅塩媛きたしひめ以来百年以上続き、蝦夷えみし入鹿いるかの滅亡後も、倉山田石川麻呂系の── その中でもおさまはみごとだった。
姉が生きることに疲れ、わが子のかるが皇位につくことが決まった今、やがて重荷を担うのは自分なのだが、
── でも、いましばらくは女帝に元気でいていただきたい。
切にそう思わずにはいられなかった。
工匠たちの努力によって、やがて仏像はやや完成をみた。七月末と決まった開眼会かいげんえを前に、鍍金ときんの仕上がりを検分に行くという母にせがんで、秋の初め、氷高はその後に従った。
空のあおさを映してか、都をとりまく山脈やまなみの色は日ましにえて来ている。宮門を出て西南に進むと、早くも薬師寺の塔が姿を見せはじめた。
「それはすばらし御仏像ですよ」
山田寺の仏像よりも小さめではあるが、むしろ威厳に満ちている、と母は言った。その言葉を聞きまでもなく、金色に輝く三体の像を眼にした時、氷高はその場に動けなくなってしまっていた。
何と豪奢ごうしゃな仏の世界であることか。
豊麗な面差おもざしの仏たち、輝かしく、そしてあくまでも静謐に、永遠を思惟しいしつづける薬師如来、そして堂々たる本尊の両脇に脇侍わきじは、いままで見た事のない自在さで、かすかに腰をひねって、微妙な流動感を漂わせる。細い切れ長の瞳がみつめる世界は何なのか。
「この御寺みてらはね、先帝からのゆかりの深い御寺なのですよ」
母の語る声を聞いたような気がする。先帝天武が、その昔、皇后すなわち現在の女帝病臥びょうがの折に創建を発願はつがんした寺。先帝の死後もその遺志は引き継がれ、後に残った女帝が夫の追福のために大繡仏だいしゅうぶつを施入した寺・・・・。
が、氷高の耳はそのほとんどを聞いていなかった。あまりにも輝きすぎる仏像の前では、祈るよりも、まず圧倒される思いが先に立つ。
壇上を見あげるうち、ふと本尊を安置する台座の奇妙な浮彫の眼がとまった。
「これは何なの、お母さま」
鬼神きじんです。仏法をお守りする鬼だそうですよ」
仏像と対照的なこの醜さ、狭い額、低い鼻、大きな口、ふくれた腹、この異形いぎょうのものが仏法を守護する? 無知で下劣な彼らにそんなことが出来るのか。それでいて彼らの浮彫の周囲を飾る草花の模様の何と優雅なことか・・・・。
「この模様は何かしら」
「遠い西の国の、葡萄ぶどう唐草からくさというんだそうです」
すべては異質でありすぎた。そしてまばゆすぎた。堂宇どううの中にあるのは異邦そのものだった。
── この異邦の仏たちに、お祖母さまのお悩みがわかるのかしら。
しきりにそう思ったのはなぜなのか? じじつ、荘重な開眼供養も、持統の健康を元に戻すことは出来なかったのであるが。そして氷高の知らない事だったが、じつは持統自身、薬師造顕のさなか、すでに退位の決意を固めてしまっていたのだった。
阿閉の懇願に対して女帝は言ったのである。
「皆が私の身を気づかってくれるのはうれしい。が、この開眼供養を先の帝への捧物として、私は位を降りたい」
夫と二人の思いを込めて造り続けて来たこの寺は、荘厳な仏国土ぶつこくどとして完成した。これを生涯の記念碑モニュメントとして、史上稀にみるスケールの大きい女帝はその地位を退く。後を継いだのは軽皇子、十五歳、氷高の弟。文武もんむ天皇の即位である。
2019/09/15
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