~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
渦 紋 (三)
氷高の眼が背後に注がれたのに気づくと、三千代は、彼女にそっと合図をした。折り目正しく一礼すると、その女性は足音も立てずに後宮の方へ去って行く。背子の裾あたりで細くくびれた線が腰に向かってしなやかにのびている。豊かな裾に覆われているのに、氷高には、まるで彼女の裸が透けて見えるような気がした。
あれは誰? と問うのも待たず、三千代は氷高にささやいた。
「きれいな娘でございましょ。田辺宮子媛たなべのみやこひめと申しますの」
「宮子、というのね」
「はい、気だてもやさしゅうございますし、帝も、とてもお気に入りでございますの」
そうかも知れない、あの妖しいまでの美しさ。しなやかな体つきに、若い弟が心を捉えられないはずがない ── とうなずきかけた氷高は、次の瞬間、心を氷つかせるような事実を知らされてしまった。三千代は言ったのである。
田辺史たなべのえびとの娘でございます」
── えっ、史の?
口からほとばしりそうになった言葉を危うく氷高はこらえた。
── 三千代、そなたは史を大嫌いじゃなかったの。
── 私は史を大嫌いよ。お祖母さまもお母さまも、みんなそうなのに、どうしてそなたは、史の娘などを弟に近づけたの・・・・
が、怒りと驚きの声は、遂に氷高の口からは洩れなかった。
── そうだったのか・・・・
氷高は今さまざまと知ったのだ。それは単に若い男と女の問題ではない、ということを・・・・。
文武が即位して数か月、その間に、時代は大きく変わったのだ。思えば八月一日、甲子の日を即位の日に選んだという事には、深いたくらみが隠されていたのかも知れない・・・・。
たくらには、ずっと前から用意されていたのだろうか。そして革令の日を合図に、覆面を脱いでち上がったということなのか。そうでなければ、この変わりようは唐突すぎる。
漠然と感じていたことをいま氷高は、はっきりさとらされた気がする。あきらかな変化を何よりもよく示しているのは、眼の前にいる三千代の瞳である。
彼女は史の娘を後宮にれたことに、何のためらいも感じていない。いやそれどころか、若き文武が宮子に惹かれていることを当然のこととし、妖しいまでの美しさを湛えた宮子を彼の傍に侍らせたことを、むしろ手柄顔に語っているではないか。
── 三千代、この間までのそなたはどこへ行ってしまったの。
そう問いかけたとしたら、三千代はきょとんとし、何を言われたかわからない、という顔をするだろう。
裏切り?
そう名づけるとしたら、これほどあつかましい裏切りはないであろう。が、三千代はみじんもそう感じていない。
── 私は帝のために働いている。
嬰児えいじだった頃の皇子に乳を含ませた時以来の三千代のこの思いは、全く変わっていないはずだ。若き文武を思えばこそ、足音も立てずにしのびやかに去って行った妖しげな美女の背にやさしい眼差しを送っているのだ。
そして今、氷高は美女の向こうに悠然と立つ男の存在をひしひしと感じている。
田辺史 ──。
そうなのだ、彼こそは、この数か月の変化の原点に立つ人物なのだ。つい数年前までは多くの官僚群の中に混じって、誰の注意もひかなかったこの男が、皇子軽を後継者に選び出すあたりから断然頭角をあらわしはじめ、いまや文武新政の中心人物にのしあがってしまっている。
── あの宮子には似ても似つかぬ小男が。
と氷高は思う。妖艶ようえんそのものの宮子と史はどこも似ていない。しいて言えば、色の白いことだろうか。首が肩にめり込み、その背をさらに丸めて歩く四十男は、極端に眉が薄い。その眉の下の小さな眼は笑うと柔和な印象さえ与える。
その風貌を、いま改めて氷高は思い出す。柔和にさえ見えるあの瞳は、耐えることを知っているおそろしい瞳だ。鎌足の死後、藤原氏を襲った悲運に、彼はじっと耐えて来た。過去を忘れたように装って田辺を名乗っている今も、あの男が過去への記憶を消したとは思われない。
とすれば、ひそかにその胸に燃やし続けている執念は、父鎌足の世界への回帰、そして彼が思い描くのは、父が天智の皇子大友に、わが子耳面媛みみもひめを侍らせたときのこと・・・・。
氷高はぎょっとして立ちすくむ。三千代の饒舌は、今は全く耳にも入らなかった。
田辺史が、文武のみことのりによって、鎌足に与えられた藤原姓にかえったのは翌年の八月。これに従って、妖艶な美女宮子も同じく藤原姓を名乗るようになったのはいうまでもない。
2019/09/16
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