~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
渦 紋 (四)
予想の的中を、いま、氷高は心をふるわせて受け止める。田辺史が藤原不比等ふびとに変身したのをきっかけに、廟堂びょうどうにおける革新のテンポはいよいよ速まったようだ。
まず提案されたのは新しい律令の制度である。つづいて三十年ぶりに、検討し派遣のことが審議された。が、さきに飛鳥あすか浄御原きよみはらりょうが施行されてからほぼ十年。それを何でむざむざ廃棄しようというのか。遣唐使派遣にいたっては、明らかな国是の変更だ。心身の戦以後、唐寄りの路線と決別けつべつした天武は、新羅との交渉を密にし、唐との交渉を断った。そしてこの路線は持統女帝に引き継がれて現在に到っている。
見方によっては天武・持統両朝の築き上げたものの徹底的な否定を、青年文武はあえて行おうとしているかのようだ。彼は甲子令の日の即位に、ある使命を感じているらしい。
── そして、その後には、あの妖艶な宮子と、そして不比等が・・・・。
氷高はひと不安に襲われる。問題は政策だけではない。もっと深いところにある、どろどろしたものが感じられるからだ。
新提案は、たちまち廟堂に大きな渦を巻き起こした。革新推進派と反対派と ──。血こそ流されなかったが、すさまじい攻防戦が続いた。その中で、氷高の恐れていたことが、しだいにあらわな形をとりはじめた。
革新派は不比等を中心に、青年文武を抱き込んでいる。反対派は壬申の戦の功臣グループで、その背後には持統太上だじょう天皇てんのうがいる。皇太妃阿閉も心情的にはこのグループに近い。
革新派が理論で押してくるのに対し、反対派を推す持統はしきりに壬申の戦の功臣を顕彰して結束を固めようとした。しかい功臣たちはすでに年老い、半ばこの世を去っている。褒賞は遺児たちにも特旨をもって与えられたが、その効果は思ったほどには上がらなかった。持統を蔭の中心勢力とするこのグループはしだいに押され、遂に廟議は新律令制定を決定した。
まるでその決定を待ち受けてでもいたように、制定作業に乗り出したのは不比等である。手廻しよく新進の知識人を集める一方、最上席には天武の皇子、刑部おさかべ親王を据えた。
「もちろん根本は飛鳥浄御原令と同じでございまして、その足りないところを補うものでありまして」
ぬかりなく持統や阿閉にもそう説明したが、出来上がったものは、かなり浄御原令とは違ったものになっていた。
たとえば、公文書の書き方にしても、今までとは一変した。諸国からの貢納物につけてくる木の札は、これまでは年月日をまず書き、その後に国名を書き、責任者の名を書くしきたりだったのが、地名をまず書き、その後に日付を書くことに変えられた。
「何でそんなことをするのです」
太上天皇持統は、そのことを聞いてあからさまに不快をしめし、
「そんなこまかいことを変えて何の意味があるのです」
文武に向かって、厳しい口調で言った。
「こんなことを変えても変えなくても同じことじゃありませんか」
「たしかにそれはそうですが」
若い文武は言い淀む。
「くだらないとは思わないのですか」
「は、しかし」
わずかに文武は弁解の言葉をさしはさむ。
「浄御原令の根本精神はなるべくそのままということにして、この辺で新味を出すことを考えたようです」
「つまらないことです」
言いながら持統は眉を寄せる。
「下毛野国足利郡・・・・。このぐんというのは?」
こおり・・・ということです」
「いままでこおり・・・ は評と書いていましたね。それをなぜ郡の字を使うのです?」
「それは・・・・唐では郡の字を書きますので」
「唐のまねをしなくてもいいではありませんか、何も属国ではないのですから」
「しかし、お祖母さま」
やさしく、許しを乞うように文武は祖母を見上げる。
こおり・・・の字を使っているのはわが国だけです」
「それでもいいではありませんか」
「しかし、これからはわが国も国交をひろげてゆけねばなりません。とすれば、何事もお互いに理解のしやすい形に・・・・」
「わかりました。何でも唐のまねをしたいというのですね」
「決してそういうわけではありません。わが国はわが国なりの考え方を通しているところも多いです」
2019/09/16
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