~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
あ し び の 窓 (一)
あしびの白い花房の揺れる季節になった。丈高くのびたその梢を風が渡るたび、連子窓の近くに置かれた机に、緑のゆらめきを伝えて来る。そのかすかな明滅を吸って、机上の螺鈿らでんはこが、ときに思いがけない光を放つのはなぜなのか。中に隠しおおせたと思った秘密が、その時だけ、こらえきれずに自分に向かって叫び声をあげているように思われて、氷高ひだかは、心をおののかせる。
── 誰にも見つかりはしなかったかしら。
胸の思いに応じるように、軽い沓音くつおとがした。
「春山のあしびの花の悪しからぬ・・・・」
おどけて古歌を口ずさんで入って来たのは、妹のひめみこ吉備きび。十七歳の春を迎えた彼女は、まぶしいばかりの美女に成長している。時として近寄りがたい気品を感じさせる幽艶ゆうえんな氷高に比べて、彼女の雰囲気はあくまで華麗に明るい。
「君にはしゑやよそるともよし・・・・。ねえ、お姉さま」
勝気をのぞかせたすずやかな瞳で、わざとにらむようにして、吉備は氷高をみつめた。
「そうじゃなくて? あの方とだったら、何と言われたっていいじゃないの、それに ──」
姉の大切な宝の筥に、そっと触れるまねをする。吉備はそこに隠されている姉の秘密を知っているのだ。
「あの方だって、そうおっしゃっていらっしゃるんですもの」
筥にしまわれた長屋王ながやのおうの愛の歌の数々を、そっと運んで来てくれるのは、ほかならぬ吉備だったからだ。
「じれったいお二人」
小椅子こいしに身をゆだね、花飾りのついた絹の沓の先を思いきり伸ばして吉備は言う。
「お会いになればいいのに、私ばかりを文使いをさせないで」
氷高は静かに微笑する。たしかに前よりは二人の会うおりは少なくなってしまった。それが吉備にはじれったいらしい。
「お母さまのお言いつけを守ろうというわけなのね」
母の阿閉あへは、前から長屋と氷高の恋には難色を示している。そして、いまは、よりきっぱりと、二人の間を認めない、という態度に変わった。なぜなら、二人の幸せを思うからだ ── と母は真剣に言うのである。それについても、吉備は、
「そんなこと、気にすることないわ」
と、日頃言い続けていたのであった。
だから、この日も、花沓の先をゆらゆらさせなが、彼女は言う。
「お姉さま、あの方がお気の毒よ。つまらない占いなんか信じていらしては」
「信じているわけではないわ、私だって」
そういう氷高の前で、ひどく真剣な瞳になった。
「私だったら、お母さまがいけないとおっしゃっても恋を遂げるわ」
「あなたらしいことね」
「自分がどうなったって構わない。お姉さまには勇気がおありにならないのよ」
「勇気の問題ではないと思うわ」
意気込んだ妹に、はじめて、やんわりと口をはさんだ。
「言っていいことかどうかわからないけど」
その瞳の底をちらりとすみれ色のかげがかすめたようだった。
「私には、お母さまの御心の中が少しずつわかってきたの」
口に出して言わないが、母の阿閉はまた新しい心労をかかえ始めてしまったのだ。案じていた太太上だいじょう天皇てんのう持統の体はどうやら持ちこたえているものの、代って病弱なわが子文武もんむが、このところひどく体調を崩していまったからだ。
が、それについても、吉備は事も無げに笑い飛ばす。
「恋の病よ、お兄さまは」
「まあ」
「ほら、あの藤原宮子みやこ ──。あの人が突然身を隠してしまったので、気が気でなくなっておしまいなのよ」
三歳年上の兄の心を見透かしたようなことを言った。
「それにきまっているわよ。お兄さまはそういう方なのよ」
「それにしても」
氷高は首をかしげざるを得ない。
「宮子はどうして姿を隠してしまったのかしら」
「さあ、それはわからないけど」
吉備は首をすくめる。
「お兄さまも気のお弱い方ね。いなくなってしまった人に恋いこがれるなんて、ほかにもきれいな人は幾人もいるのに、ほら、あの石川刀子とじのいらつめ ──」
石川刀子娘と紀竈門きのかまどのいらつめは、いまや正式の文武のきさきとしての待遇をうけ、ひん(きさきの中で夫人ぶにんに次ぐ地位)と呼ばれるようになっている。とりわけ自分たちの一族に連なる刀子娘に、吉備は好意を持っているらしい。
「私、宮子より、刀子娘の方が魅力があると思うわ。宮子は何だか凶々まがまがしい妖気を漂わせるようなところがあったわね。そこへゆくと刀子娘はかわいい、ってかんじでしょ。お兄さまも、宮子ことなど忘れて、刀子娘をいつくしみなさればいいのだわ」
「あら、でも」
氷高は微笑を浮かべた。
「いま、あなたは、好きな方とならその愛を貫くのが勇気のあるやり方だって、言ったばかりじゃないの」
「え? そ、それはそうだけど」
返事につまったのは一瞬のことで、吉備はけろりとして言ったものだ。
「でも、そりゃあ、お兄さまはみかどですもの、帝と私たちとは違うわ」
「あら、そうなの」
しまいには声をたてて笑い合ってしまった二人だった。
── 大人になったようでもまだ子供なのだわ。
笑いを残して去った妹のことを、氷高はほほえましく思わないではいられない。自分には恋を貫けと言い、文武には宮子をあきらめるべきだと言って、何の矛盾も感じないあの朗らかさ。それは真の恋を知らないつよさなのかも知れない・・・・。
宮子のことで話が逸れてしまったけれど、じつは彼女が妹に話したかったのは別のことなのだ。
── お母さまは、帝のお体に万一のことがあったときを考えておいでではないのか。
最悪の事態にならないまでも、政務にさしさわりが出てきたらどうするか。まだ子供に恵まれていない文武の後は? 後継者問題がむずかしいことは、それこそ文武のときに経験させられている。皇太妃こうたいひとしてわが子と共同統治の責任を持つ母の表情の重さは、多分このことと無関係ではないだろう。
そして、もしかすると ── と氷高は思う。
── お母さまが頭に描いているのは、あの方、長屋王ではないのか?
長屋王の母は、持統の異母妹(阿閉の同母姉) 御名部みなべ ── 持統の子の草壁くさかべは即位せずに世を去ったが、その後を阿閉の子の文武が継いだからには、次は御名部の子、というありようは十分考えられる。長屋の父の高市たけちは草壁の死後、皇太子に準じた扱いを受けていたし、さらに母系の血筋の尊貴を考えれば、むしろそれは自然のことなのだ。
── してみれば、ここは慎重に、あの方の周囲に余計な波風を立てない方が、とお母さまはお考えなのかも知れない。私たちのことは、それが決まってから後でも遅くはない。
そのことを氷高は妹に言いたかったのだ。
その思いに捉われていた6せいだろうか、彼女は、去りぎわに妹の残していった一言をつい聞き漏らしていたようだ。
「そうそう、三千代みちよはまもなく戻ってくるんですって」
宮中を飛び歩き、好奇の眼を輝かして、あらゆる噂を嗅ぎつけてしまう吉備は、文武の忠実な乳母めのとあがたの犬養いぬかい三千代について、こう言っていたのであるが・・・・。
2019/09/17
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