~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
あ し び の 窓 (二)
噂にたがわず、三千代はまもなく宮中に姿を現し、また周囲に愛嬌あいきょうをふりまきはじめた。そしてその直後、氷高は、
「お姉さま」
ただならぬ表情の吉備に袖を強くつかまれる。そのまま、物も言わずに、自分の寝所まで姉を引っ張ってきた彼女は、あたりに人影のないことを確かめてから、こう言ったのだ。
「三千代はね、里へ下がって、こっそり子供を産んだのよ」
「えっ、まあ・・・・。
しいっ、というように吉備は唇に指を立てた。尋常の懐妊、出産でないことを、口に出して確かめ合うほど、二人は幼くはなかった。
三千代の夫、美努王みぬおうはそのころ筑紫に赴任していたはずだ。この年の春、都に戻って左京大夫さきょうのだいふ ── 都の東半分である左京の長官 ── になっている美努王であったが、三千代の懐妊、出産はその留守の間に行われたということになる。もっとも、そういうことはさまで珍しいことではない。夫婦が別居することがむしろ常識だったその頃、その結びつきはひどくもろく、崩れやすいものだった。あるいは、美努王の筑紫赴任とともにその仲は自然とだえたとしても不思議ではないし、三千代が別の相手と交渉を持ったことも、決して不貞として責められることではない。
みしろわざわざ宮廷から身をかくして子供を産んだことが不自然なのだ。新しい相手と恋に陥ったとしても、それは誰からも認められることだし、都の中のわが家で出産を迎えればいいのである。それをなぜ三千代は不自然に身を隠すようなことをしたのか。よほど周囲に知られたくない相手だったのだろうか・・・・。
氷高はふと、数年前の冬の夜、内廷の庭で男ともつれあっていた三千代らしい人影を見たことを思い出した。
── あの方に送られて帰ってきた時だったわ。
闇の中にせるばかりの女の香をふりまいたその人影を三千代だとすると、男はいったい誰だったのか・・・・。
そのことを口にすべきかどうか、ためらっている間に、吉備はこう勝気そうに瞳を輝かせて、
「いいわ、わつぃ、きっとつきとめてみせるから」
そして数日後、同じように、氷高を寝所に引き入れて、
「お姉さま」
「声を殺して吉備は言ったのである。
「わかったわ」
自分の手柄を子供っぽく誇ると言うより、その頬はむしろ蒼ざめてさえいた。きゅっと、氷高の腕を握って引き寄せたその手はひどく冷たかった。そして妹の口からその言葉を聞いた瞬間、体の中を走り抜け悪寒おかんに似た思いだけが、長く氷高の記憶に残った。
「藤原不比等ふびとよ」
そう吉備は言ったのである。すぐには返す言葉もなかった。が、驚愕きょうがくの瞬間が過ぎたとき、むしろすべての謎が解けたような気がした。私も不比等は大嫌いでございます、と言った三千代。軽皇子かるのみこ(文武)のためには嫌な奴でも何でも利用するのだ、と言った三千代、そして内廷で宮子を見送った眼差し ──。
三千代は不比等の術中にちたのか。それとも、文武の身を思って不比等を抱き込んだのか。いや、それを上廻る大人の打算と愉悦がそこにはある。小奇麗な大義名分を口実に、その実、恥知らずに性のたのしみをむさぼりあいながら、それがそのまま二人の利害に連なることを無言で了解しあっているようなふてぶてしさ。
その構図の上に、あの妖艶な宮子の面差しを重ね合わせた時、思わず、氷高はぎょっとして口走っていた。
「もしかしたら、宮子は、美千代がどこかへ隠したのではないの?」
人知れず身を隠さなければならないちょうなことが、宮子の身の上に起こった、ということは? 三千代のそれと思い合わせれば、たちまち察しがつく。
「お姉さま・・・・」
吉備は立ち上がっていた。
「お母さまにお知らせしなくては」
宮子がひそかに身ごもり、文武の皇子を産み落としていたことがわかるまでにさほど日数はかからなかった。美千代が産んだ不比等の子は女児だった。三千代の本拠河内かわちで育てられ、その近くから召しだした乳母の出身地に因んで、安宿媛あすかひめと名づけられすくすくと育っているという。
一説によると、宮子の産んだ皇子も、同じく三千代の本拠で育てられているのだという。出産の後、宮子はなぜか心神を喪失し、遂に正常に戻らず、わが子とも引き離され、さる所に隠されている、ともいう。かと思えば、それらは全て作り話だとも・・・・。
諸説が、乱れ飛ぶのは、不比等と三千代が、宮子の出産を極秘のしているからだ。ふつうなら現帝の第一皇子の出産を誇らかに宣言したいところを、わざと避けているのは、不比等一流の慎重さから来ている。
政界に復帰したとはいえ、まだ彼の勢力は安定していない。ここで文武との接近を見せ付ければ、どんな報復をこうむるか。宮子ともども皇子も闇に葬られる危険もなしとはしない。とりわけ彼が警戒しているのは、持統や阿閉の眼だ。彼女たちは決して自分を許してはいない。まして宮子が皇子を抱いて後宮に姿を現しでもしたら、どういうことが起こるか・・・・。多分彼は文武に言ったことだろう。
太上帝おおきみかどにも皇太妃さまにも、このことは御内聞に・・・・」
この秘密を守る苦しさに耐えかねて、病弱な文武は神経をすり減らしてしまったのだ。そして、ことの輪郭がはっきりしてきた時、文武の恐れていた事態が起こった。
2019/09/18
Next