~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
あ し び の 窓 (三)
持統と阿閉は、ただちに不比等への反撃にとりかかった。一刻も猶予は許されない、と彼女たちは思ったのである。まず、持統の信任のあつ大伴おおともの安麻呂やすまろの復権が試みられた。
さきに、中納言という官を廃することによって廟堂を追われてしまった彼は、大納言にはなれなかったものの、「朝政ニ参議セシム」という形で閣議に復帰する。もちろん不比等はすんなりこれを受け入れたわけではない。彼と親しく、すでに遣唐使に任じられていた粟田真人あわたのまひとら数人も同列で閣議につらならせたが、ともかく持統と阿閉の巻き返しは成功した。
ついで彼女たちは、安麻呂を兵部卿ひょうぶきょうに任命する。軍事権の掌握であった。こうしておいて、持統は病み衰えた体を引きずって旅に出ることを宣言する。
健康を理由に、不比等らはしきりに止めた。しかし、持統はりんとしてこれをはねつけた。
「私は行きます。行かねばなりませぬ」
巡行の地は、伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河 ──。まさに壬申の戦を彼女と共に戦った人々の本拠である。行く先々で強固な城砦じょうさいともいうべき行宮あんぐうが作られ、壬申の功臣たちの子孫には異例の褒賞が与えられた。
「人臣の戦が抹殺出来るものならしてごらん」
老いたる持統の生命をしての挑戦だった。彼の地で功臣の子孫たちと重ねた密談は何だったのか。彼らの上京を期待したのか、それとも壬申の折のように、持統みずからが文武帝を引きずって彼の地に移り、不比等との対決を期すためだったのか。しかしその謎を解く機会は遂に来なかった。なぜなら一月余りの旅から帰るなり、持統は床にし、遂に起つことがなかったからである。

氷高が、祖母、持統の病床に呼ばれたのは、十二月の半ばのことであった。すでに顔色は土気色に変わり、吐く息も絶えだえであったにもかかわらず、その顔を見るなり、祖母はしいて微笑を見せようとした。
「美しいこと、そなたは・・・・いつも」
が、氷高がその病床にひざまづいたとき、微笑は乾いた顔から消えていた。
「もう私の命は長いことはありません。余裕はないのです。口の利ける間に、そなただけに言っておかねばならないことがあります」
侍女たちを遠ざけ、苦しい息の下から、短く持統は言ったのである。
「皇太妃を、あなたの母を、助けてあげなさい」
「はい、お祖母ばあさま」
「力になれるのはそなたしかありません」
言外の意味の重さに氷高は体を固くする。
「はい、母と共に帝をお守りいたします」
持統は眼を閉じてそれには答えず、切れ切れの息の下で言った。
「いざというとき、伊勢、伊賀、尾張など五か国の者どもが力になってくれるでしょう。今度の旅で、よく話をしてきましたから」
「はい、お言葉をよく憶えておきます」
ゆっくりと持統はうなずいた。それから、あらん限りの力を込めて、氷高をみつめた。
「そう、そなたが、次の大家おおとじですよ」
「は?」
「母君の次はそなた・・・・蘇我倉山田石川麻呂家の大家はそなた」
それから、呟くように言った。
「石川刀子娘を考えたこともあったのでしたが」
聞き取りにくい、かすれた、短いその言葉が、耳いっぱいに鳴りひびくように氷高には思われた。
2019/09/18
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