~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
楯 立 つ ら し も (一)
巨木が音もなく倒れたような、持統の死であった。しかし、ぽっかり空いてしまった灰色の空間には、今も、かつての日の巍然きぜんたる女帝の記憶が刻み込まれている。氷高ひたかにはそう思われてならない。
現身うつしみが存在しなくなったことによって、かえって生前よりも祖母を身近に感じるのは、死の床から語りかけてくれた言葉のせいだろうか。
── 私はお祖母ばあ さまに誓ってしまった。お母さまを助けてゆかねばならない。
周囲の批難から一歩も退くな、と祖母は言った。優艶な氷高の面差しに、はりの鋭さが加わったのはそれ以来のことだ。長屋王を強いて避けるようなそぶりを見せはじめたのもその頃からである。
「お二人の間に何かがあったのかしら?」
侍女たちは、不可解な恋の成り行きをいぶかしみながら声をひそめてささやきあった。
「ひめみこさまが心変りされたとか」
そんなささやきが、間もなく氷高の耳にも届いてきた。噂が広がれば、我儘わがまま、冷酷、と人は自分をそしるかもしれない。
── お祖母さまが、周囲の批難から一歩も退くな、とおっしゃったのはここなのだわ。
氷高は息をつめた。持統の死以来、政局も微妙な変化を見せはじめている。人々は、強い指導力を保ちつづけたこの女帝への記憶を、急いで拭いさろうとしているかにみえた。
持統の伊勢行きに反対し中納言を辞めさせられ、一地方官の地位に甘んじていた大神おおみわけ高市麻呂たけちまろが郡の東半分を統括する左京さきょうの大夫だいぶに任じられたのもその一つだ。
これに先立ち、藤原不比等ふびとの第二子、房前ふささきが、各地へ派遣される政情調査官の一人に選ばれことと思い合わせれば、おのずとその意図するところもはっきりしてくる。
氷高には、これまで見えなかったものが見えて来た。不比等はしだいに自分の味方をふやそうとして地方にまで手をのばしはじめているのだ。房前の分担は東東海道 ──。持統がぎりぎりまで協力をあてにしている地方である。ここで房前が何に眼を光らせたかも、氷高には見当がつく。
いわばこれは一種の地ならしである。こうしておいて、ある日、さりげなく後宮に一人の幼児が迎え入れられる。
不比等の娘、宮子が、文武との間にもうけたおびとである。幼児は数え年三つになっていた。が、不思議な事に、幼児の母、宮子は、そうなっても後宮に姿を見せなかった。幼児を抱くのはいつもおあがたの犬養三千代いぬかいみちよ乳母めのとだからそれはあたりまえ、といわぬばかりの誇らしさで、「ほら、おかわいらしい皇子みこさまでしょ。母君そっくりで」
誰彼なしに見せびらかすようにした。言われるまでもなく、幼児はあきらかに宮子の美貌を受け継いでいる。透きとおるような白い肌、長い睫、女児にもみまがうばかりの線の細さが、ひよわな体質を感じさせたが、
「こんな美しいお子さまは、どこにもいらっしゃらないのでは」
という侍女たちの言葉は、媚やへつらいではなかった。三千代の顔はいよいよ誇らしげになる。ゆっくりうなずく眼の隅には、
── このかわいらしい皇子さまが今まで宮中入り出来なかったのは、太上帝おおきみかどのお眼が光っていたから・・・・
とでも言いたげな気配がうかがえる。裏を返せば、不比等も美千代も宮子も幼児も、持統の死を心待ちにしていたということなのか。
2019/09/18
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