~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
楯 立 つ ら し も (二)
幼児を抱く三千代のすそには、時折、小さな女児がまつわりついていることがある。っすでに三千代はこの女児の父が不比等であることを隠そうとはしない。安宿媛あすかひめと呼ばれる女児は、宮子の子と同い年のはずだが、ずっと足もしっかりしていて、柄も大きい。幼児に似合わないほど、眼の光の強いこの子をかえりみて、
「皇子さまのよいお遊び相手ですの」
と三千代は相好そうごうをくずす。が、その三千代も、宮子のこととなると、にわかに口を閉ざしてしまう。何で宮中入りしないのか、今もってその謎は解かれていない。周囲の嫉視しっしを恐れているからだとも、出産以来、全く体調をくずしているのだとも、心の病に冒されているのだとも、噂はさまざまだった。実母の賀茂比売かものひめの所にいるとも、ひそかに不比等の邸内に迎えられたとも言うが、それを確かめた者は誰もいない。幼児の顔を見ても文武がさほど嬉しそうな顔をしないのは、宮子の後宮帰還が実現しないからだ、と侍女たちはしきりに噂しあった。
文武はやはり宮子を愛し続けているのだろうか。代わって文武に侍する石川刀子娘とじのいらつめきいの竈問娘かまどのいらつめは嬪の称号を与えられてはいるものの影の薄い存在になっている。
「私は帝をお慰めすることが下手なのです」
途方にくれたように、刀子娘が氷高にそう言った事がある。気の優しい、美しい娘なのに、内気すぎて自信がないのだ。石川の姓が示すように、氷高と同じく蘇我山田石川麻呂の血筋を引いてはいるのだが、有力な肉親がいない。
「どうしても石川麻呂系の娘をきさきに」
という故持統の強い希望があって後宮入りしたのだが、そのこと自体彼女には重荷らしい。
「あなたの心の優しさは、いつか帝もわかってくださると思うわ」
氷高にはそれしか慰めようがなかった。期待というより、祈りに近い思いでしかなかったのだが、大分経ってから、氷高は刀子娘の口から、そっとこう告げられたのである。
「あの、私・・・・帝の子をみごもったようなのです」
持統の死後、一年半ほど経ち、慶雲と改元されて間もなくのことであった。月のない夜を選んで氷高の殿舎に忍んで来た刀子娘の眼はうるみながら輝いていた。
「まあ、それはほんとう?」
思わず氷高は刀子娘の白いふっくらした手を強く握った。
「はい」
頬に漂っていた自信のなさは消え、母になる喜びが体じゅうにあふれている。
「よかったこと」
言いながらも、氷高は、
「ここに来たことを、誰にも気づかれなかったでしょうね」
付け加えずにはいられなかった。
「はい、それは誰にも」
氷高を姉のように慕っている刀子娘は、まずそのことを知らせたかったのだ、と言った。
「ありがとう。早速私から母君にはお知らせしておきます。まだ帝には申し上げていないのですね」
「はい、明日にでも・・・・」
氷高は首を振った。
「いえ、それは少し先のほうがいいでしょう」
「は?」
の下で、刀子娘の眼が、いぶかしげな色を見せる。
「このことは、ほかの誰にもさとられないように」
「は、はい・・・・」
おぼつかなげなうなぢき方に、氷高は彼女がことの重大性をまだ認識していないことを知った。
「体をいたわってね。さ、気をつけてお帰りなさい。誰か供をつけましょう」
侍女を呼んで、屈強な舎人とねりに見えがくれに警護するように言いつけたまま、氷高は窓辺に身をあずけた。内廷の庭は暗い。ゆっさりと樹冠じゅかんを茂らせた樹々が、かすかに葉を揺らせる気配がする。
刀子娘の出産は来年 ──。もしそれが男の子だったら? 今も、三千代のふところですやすやと寝息をたてているであろうあの幼児との対立は必至である。三千代や不比等を相手にいかに戦うべきか。それにもう一人のきさき、紀竈門娘の背後には古来の名門紀氏がついている。しかし、死に行く祖母持統との間に交わした約束は、どうしても守らねばならない、と氷高は思った。
事態は新たな展開を見せはじめた。文武の血をけた生命がもう一つこの世に生まれ出ることは、少なくとも、宮子の産んだ幼児の独走を阻むことになるはずだ。
そう思いながら、しかし、氷高の胸はひどく重い。刀子娘をみごもらせた弟の文武に、晴れ晴れと祝いの言葉を贈る気にはなれないのだ。不比等の娘、宮子におぼれ、今も未練を断ち切れない弟を許せないでいる自分としては、心から喜んでいいはずなのに・・・・。
── 人の心はうつろいやすい。離れていれば、人間はみなそうしたものさ。
さかしらなささやきが聞えるような気がする。文武は姿を見せない宮子を早くも忘れてしまったというのか。そのことは、おのずと氷高に一つの面影を思い出させる。
別れてしまった長屋王ことだ。
── あの方もまた・・・・
そうかも知れない。青年長屋の身辺には、その後、しきりに女たちがまつわりつくようになったとも聞いている。その中で自分の影が次第に薄れてゆくことを、自分もまた平静な思いで受け止めねばならないことを、氷高は感じていた。
その時、しのびやかに戸を叩く音がした。
2019/09/18
Next