~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
楯 立 つ ら し も (三)
夜半の来訪者は、隣の殿舎に住むようになっていた妹の吉備だった。
「お邪魔していいかしら」
日頃の遠慮なさとは打って変わったぎこちなさで吉備は入って来た。
「おかけなさいな」
小椅子こいしをすすめ、
「灯を明るくしましょうね」
「侍女を呼ぼうとするのを手で制して、
「お話があるの」
思いつめた口調で言うなり、吉備は唐突に床にひざまずいき、氷高の手を握りしめた。
「いえ、お許しをいただかなくてはならないの」
「ま、どうしたの、突然に」
「お姉さま・・・・」
吉備はじっと氷高をみつめてから、力なくうなだれ、姉の膝に頭をもたせかけた。
「だめ、どうしても言えないわ」
「いったい、どうしたというの」
無言でしばらく顔を伏せていた吉備は、やっと首をあげると、氷高の膝を離れ、床に坐りなおした。
「さ、立って椅子におかけなさいな。そして何でも話して。あなたのしたことで、私が許せないことなんてないと思うわ」
氷高の言葉に首を振って、それから思い決した口調で言った。
「お許しいただけることではないのよ、それは・・・・」
必死の眼差しが迫って来た。
「長屋さまのことなの」
えっ!
思わず叫びそうになる声をこらえて、よろめく体を、氷高は危うく卓にすがって支えた。
「長屋さまと私のこと、お許しいただけるかしら」
長屋と妹が? そんなことがあっていいものか。自分がこんなに苦しみながら、長屋のことを諦めようとしているのに・・・・。長屋の傍に飛んで行って、すべてを打ち明けたかった。いや、それよりも、妹の髪を掴んで床をひきずり廻したかった。が、氷高は、いま、それが出来ずにいる。
── 誇りではない。自分は心弱くてそれが出来ないだけのことなのだ。それが誇りならば、誇よ呪われてあれ! このに及んで何も出来ない自分がみじめだった。そんな自分を、もう一人の自分が嘲笑あざわらっている。
── いまさっき、お前は人の心は移ろいやすい、と知ったはずじゃないか。長屋が遠ざかって行くことを覚悟したというのも、つまりはきれいごとだったにね。それならそれで泣くがいい。えるがいい。それが出来ないのか。愛していながら、それも言えなかった意気地なし!
混乱はまだ頭の中で渦巻いている。ひどく叩きのめされながら、僅かに氷高が言えたのは、
「許すとか許さないとかということではないわ」
という言葉だけだった。
2019/09/19
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