~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
楯 立 つ ら し も (四)
見れば妹は床に坐ったまま嗚咽おえつしている。むしろ恋人を奪われ、叩きのめされているのは自分であるかのように、吉備は紅の袖で顔を被って泣き続けた。我に返った氷高の耳に、切れ切れの言葉が入って来た。
「そうなの・・・・わかっているの。申し開きの出来ることではないわ。顔向けの出来ない事よ。非難されて当たり前だわ。あの方とお姉さまとが結ばれることを一番願っていたわつぃが、こんなことになるなんて」
言いかけて涙にぬれれた顔をあげた。
「でも、お姉さま、わかってくださるかしら、私とあのかたのこと、いいえ、今すぐわかってくださいとは言えないわ。でも、これだけは知っておいていただきたいの」かたちを改めて、吉備はぽつりと言った。
「あの方は、今でもお姉さまを愛していらっしゃるわ」
「何ですって」
氷高は声を制して続けた。
「そうなの、もう結ばれないとわかっていても、あの方に胸からお姉さまの幻を消すことは出来ないのよ、だから・・・・」
胸の痛みに耐えきれず、気をまぎらすかのように長屋は幾人もの女たちと交渉を持った。しかし誰一人として、彼の魂を慰めてくれる者はいなかった・・・・。
しんな長屋をみつめていた吉備の同情が愛に変わったとしても不思議ではない。そのことを認めながら、
「お姉さま・・・・」
静かに吉備は氷高に眼を向けた。すでにその瞳には涙かなかった。
「そうなの、だから、あの方にとって、私はお姉さまの身代わりなの」
「えっ、何という事を」
「いえ、私は知っているの、顔立ちも性格も違うけれど、私がいることで、あの方はまだしも慰められるのだわ」
「・・・・」
「私にはわかるの。今のあの方には、そういう人間がどうしても必要なの」
「でも、それじゃあ」
私があなたに犠牲を強いたことになりはしないか ── と言いかけた氷高の前で。きゅっと口を結んで吉備はかぶりを振った。
「いいの、私はそれでいいと思っているの」
それから、ゆっくりと一語一語に力を込めて吉備は言ったのである。
「だって、私、あの方を愛してしまったのですもの」
不敵な挑戦ともとれる言葉に辛うじて氷高は応えた。
「あなたらしいことね」
亡き祖母の面影が眼に浮かんだのはこの時である。その面影に必死に氷高はすがりつこうとしていた。
── そうなのだわ、私はお祖母さまの道を歩かねばならないのだもの。
それが口実であり、ごまかしである事は、彼女自身が一番よく知っていた。
と、その時、立ち上がった吉備は、氷高に近づいて、その肩に手をかけてささやいた。
「それに、お姉さま。私・・・あの方の子をみごもっているの」
氷高は瞬間、体の中をひどく生臭い何かが走り抜けたことにうろたえた。嫌悪か、羨望か、それとも眩暈めまいに似た陶酔か? ふしぎな女の生理が体の奥で吉備の言葉に応えたのだ。石川刀子娘から妊娠を打ち明けられた時は何とも感じなかったのに、この奇妙な反応も、やはり肉親であるがためのものなのか。
「あなたらしいことね」
動揺を覚られまいとして、つとめて静かに言いながら、氷高は、長屋がすでに自分とは全く別の世界の存在になってしまったのを覚らないわけにはいかなかった。
吉備の頬に、その時はじめて微笑が浮かんだ。
「憶えていらっしゃる? お母さまのおっしゃった夕占問ゆうけどいのこと」
「ええ」
「世の常の恋をすれば、おそろしい運命に陥るって言われた、あのお話。今までそれはお姉さまのことばかりだと思っていたのだけれど、案外、私のことじゃないかしら」
「まあ」
「でも私、それでもいいと思っているの」
ひるみも見せず、吉備は言い切った。
2019/09/19
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