~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
楯 立 つ ら し も (五)
翌年、吉備は男児を産んだ。長屋と氷高の結婚に難色をしめしつづけた母を、吉備は強引に事実を突きつける形で承諾させてしまったのである。男児は膳夫かしわで王と名づけられた。この後、吉備は、葛木かつらぎ鉤取かぎとりの二児をも産むのだが、それはもっと先のことだ。しかもその間、母の恐れていたような不幸は全く訪れなかった。
それどころか、吉備の夫となる事によって、長屋王の地位もしだいに確立していった趣がある。結婚により以前に彼は無位から正四位以上に叙せられている。若手の皇族としては最も優遇された出発である。父の高市たけちが皇太子同様の待遇を受けていたこと、母の御名部みなべが天智の娘であり、しかも皇太妃こうたいひとして文武と共同統治の任を背負っている阿閉の同母姉であることから、血筋の尊貴さが認められてのことであったが、この段階ではまだ官途にはついていなかった。
が、吉備との結びつきによって、阿閉と御名部はいよいよ親密になり、長屋は皇太妃阿閉にとってなくてはならぬ存在となった。たしかに長屋自身、その信頼に応えるに足る実力の持ち主でもある。律令にも明るく、詩文にもすぐれ、その才幹を慕って集まって来る知識人たちも多かった。いまや彼は若手皇族の中で、最も将来を期待される人物とみなされつつある。ここにも不幸の翳は全く見られない。吉備は夕占問のことなどすっかり忘れたような顔をしている。
そして、わらながら不思議な事だが、氷高も、いつか、長屋へのこだわりを薄れさせていった。ひどくうちのめされ、苦しみ、母の許を訪れる長屋とも決して顔を合わさないようにしていたが、気がついてみると、いつか、彼の政治的才幹の豊かさを評価できるまでになっていた。
── むしろ二人にとってはこの方がよかったのだ。
そう思えるようになったのは、その間に彼女が政治状況の中で恋よりもすさまじい試練に遭い心を鍛えるすべを身につけたからかも知れない。まず、彼女が直面したのは、石川刀子娘の出産をめぐる諸問題であった。妊娠とわかると、藤原不比等や県犬養三千代たちは、あきらかな嫌がらせをはじめた。宮子の産んだ男児の地位が揺らぐことへの危機感からである。
「食事にも毒が盛られているのではないかと、不安になってまいりました」
刀子娘からひそかな連絡があった。みごもった女の異常な神経の昂りかも知れなかったが、とにかく急いで刀子娘の身を隠す必要があった。かつて三千代が宮子ともども早々に後宮から姿を消した深謀遠慮が、今になってしみじみと思いあたった。
一応石川一族のつてを辿って、都の中のとある邸に身をひそめさせた。氷高たちの殿舎に連れて来てしまえば一番安心なのだが、それでは対立があらわになりすぎ、不比等たちを刺戟しげきするだろう。こっそりと阿閉の舎人や氷高の従者にその身辺を警護させた。
石川、つまり蘇我の一族は、いま凋落ちょうらくの一途を辿っている。女系ではたしかに阿閉、御名部、そして氷高姉妹と、尊貴の地位を独占しているが、男たちは一族の相剋によって没落し、高官の座にあるのは一人もいない。中で最長老は石川宮麻呂みやまろだが、今は太宰大弐として筑紫にあるので、現実には役に立たない。
しかし、その困難の中で刀子娘は無事に出産を迎える。生まれたのは、逞しい男の子だった。広成ひろなりと名づけられた嬰児を抱いて、
「ひめみこさまのおかげでございます」
刀子娘は涙を流して喜んだが、それによって、前途がいよいよけわしいものになったことを氷高は感じずにいられなかった。
不比等たちは急いで宮古所生の首の立太子を画策しはじめたが、皇太妃阿閉は、
「藤原氏の女性の産んだ皇子が皇太子に立つなど聞いたことがありません」
一言のもとにね付けた。たしかに、これまで藤原氏の血を引く皇太子や天皇は史上一人もいない。母系を尊重する当時にあっては、阿閉の一言は絶対的な重みを持った。
では石川刀子娘の産んだ広成はどうか。
「たしかに刀子娘は帝とも血のつながりの深い石川氏の出であられますが」
不比等は恭しく反論する。
「いまや石川一族は昔日のおもかげはございません」
すでに石川は卑姓といってもいい、といわぬばかりの言い方をした。しかし、この時点での皇太子擁立は無理な話だった。第一、首も広成もあまりにも幼すぎる。不比等が焦りすぎているのが誰に目にも明らかである。
一方の阿閉側も、後に退けぬところがある。これまで、天皇には必ず蘇我の血を引くきさきがいた。正后でない場合もあったが、欽明きんめい天皇以来百数十年、この伝統はほとんどゆらいでいない。これだけ蘇我の娘と天皇との結びつきは強かったから、しぜん次期の天皇の多くは蘇我の娘たちの血を享けている。
例外は天智の皇子、大友で、皇太子に擬せられた彼は、伊賀の采女うねめの子で。しかもしさきに蘇我の娘はいなかった。それどころか、中の一人は藤原鎌足の娘だった・・・・。
不比等がそれを持ち出そうとするのを、阿閉の眼は冷たく拒否する。
── 不比等よ、だからこそ私たちは壬申じんしんの戦を戦ったのですよ。ごらん、大友は皇位につけなかったではありませんか。
もちろん天武にも藤原氏からきさきは入っているが、それより優位に倉山田石川麻呂の血をひく娘たちがいた。阿閉と不比等の対立の中で壬申の戦の記憶が重苦しくむしかえされる。結局、血は流さないまでも、文武と両皇子が成長するまで、二十年近く、息づまる戦いを続けねばなるまい、と両者が覚悟を決めた時、思いがけない事態が起こった。
2019/09/19
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