~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
張良の登場 (二)
劉邦は戦国期に生れ、その影響を受け、二十代半ばを越えてから秦の統一をその目で見た。戦国いというのは呼称こそ殺伐であったが、しかしあらゆる面での社会の成熟のあらわれであるといえる
日本列島では、多数の人口がここに住むことが遅かったため、中国大陸より七、八百年遅れて広域社会をふまえた国家が出来、このため戦国期の成立もはるかに遅れた。しかし歴史年代のへだたりを越えて、相似点が多い。
戦国の現出の先駆的な条件は、古代社会に比べ、農業生産力が飛躍的にあがり、自作農が圧倒的に増え、人々は農奴的状況から解放され、それをふまえて自立精神が出来上がったということを見ねばならない。これによってアジア的な意味での個が成立し、この個の成立からさまざまな思想、発明が、沸くように出て来た。戦国の前時代の春秋期をふくめて諸子百家が湧くように現れ、中国思想史上、後代にもない絢爛とした時代を現出するのも、以上のような土壌に由来する。
戦国から秦の崩壊期までを特徴づける「士」の成立も、右の土壌から出ている。この時代の士は、日本の江戸期のような世禄を相続する者をいわない、農民の中から自立して出て来る一種の自由人で、自分の知識と精神が役に立つならば仕え、気に入らねば市井にかくれ、あるいは漫遊して遊子になり、ときには有力者に寄食して食客になったりするが、その生き方は自律的で、自分の徳義でもって進退し、あるいは生死し、かつての時代の奴隷的な隷属根性をいっさい持たない。この稿で、筆者はやがて張良という人物に触れてゆきたいのだが、張良もまたかつての戦国における士の気分を濃厚に継いだ者であり。もしくは項羽に身を寄せて軍使になっている范増もまたその出身で、その気分をあふれるほどに代表している者といっていい。

劉邦をもって、士の出身といえるかどうか。
士は知識人である。この点で、劉邦はそうではなかった。また文字としての士は仕という文字がそこから出ているように、人に仕えて力を発揮するものであったが、劉邦は若い頃から人に仕えようとはしなかった。田畑を多く持ち、多数の農民に支配力を持っている豪族かと言えばさきに触れたようにそうではなく、徳と俠以外にはどういう力も持っていないとおう点では、劉邦はやはり遊俠にちかい。
遊侠はその後、世がさだまった時期にすね者として存在するが、戦国からこの時代にかけては、郷村や市井で何がしかの勢力を持つ者は俠の要素を強く持っていた。
秦の盛時、地方官庁にやとわれた地元出身の吏のなかで、一種の世間的勢力のある者は単なる事務の徒でなく、俠の要素を持ち、地元の仲間たちを保護していた。
本来、中国の農耕社会には王朝など要らないという古代的な無政府主義の気分があり、民衆社会の態様も多分にそうであった。里が、里ごとに里ぐるみ墻を築いて自衛し、父老という住民代表を立てて自治しているかぎり、王朝など不要であり、たとえ必要悪として王朝が成立しても、王朝の重圧感を個々の里村に感じさせないというのが、古代以来、理想的な政治──堯舜の世──とされてきた。
しかし実際上、そういう羽毛のように軽く母親のようにやさしい王朝があったためしがなく、苛斂誅求王朝の常態であり、その王朝自体の害というのは、王朝が「賊」としている草匪の害よりははなはだしかった。
農民たちは、王朝の害から、どのようにして身をかわし、あるいはその手傷を軽くすませるかということで腐心してきた。その腐心の代表が「父老」であり、彼ら父老たちが恃むあては、王朝から派遣されて来る「官」ではなく、地元出身の「吏」であった。吏といっても、俠心のある吏でなければならない。たとえば沛の町にいたその種の吏が、劉邦の子分である蕭何であり、曹参であり、あるいは劉邦が好きでたまらない夏侯嬰、または任敖などであった。彼らは後代の吏ではなく、それぞれ私的に面倒を見ている農民団を、集落ぐるみでいくつか持っている任俠の親分ろいう秘めた側面を持っている。
20200327
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