~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
張良の登場 (三)
劉邦は、その頂点にいる。
本来、って立つべき何も持たなかった劉邦がなぜ大組織をなしたのであろう。さらには項羽こうう軍に劣るとはいえ、それに次ぐ軍隊をころがしつつ、目下西進している秘密は何であるのか。
そのことは実にわかりにくい。これについては、しばしば学問的考察の対象にさえなった。
西嶋定生氏の論文「中国古代帝国成立の一考察── 漢の高祖とその功臣」(1944・『歴史学研究141号)が、その皮切りと言っていい。
これに対し、守屋美都雄氏が「漢の高祖集団の性格について」(1952・『歴史学研究』158、9号)で批判し、それぞれ充実した成果を得ている。
この二つの論文についての紹介や賛否ははぶくが、西嶋氏が、劉邦の初期、その身内の組織についての呼称に目を付けたのは、功績といっていい。   
   中、舎人しゃじん、卒、客
と、その隷属のぐあいが、そういう呼称で分かたれているということであ。
中涓というのは、涓人ともいう。本来、国王に仕え、その身辺に侍して掃除をする役目の者で、あわせて取次とりつぎもする。
家臣というものは元来、豪族の家内奴隷から出ているが、豪族が力を得ると、その身辺に仕える奴隷も豪族の意思の代弁者(取次)として、外界にむかって大きな権力を得る。以上は中涓の本来的な意味もしくは在り方で、豪族でも富家の出身でもなかった劉邦の場合、彼の身辺で使われている中涓の語の意味や内容はそこから派生した別のもののように筆者には思われる。
舎人も同様である。
この語は古代のしゅう王室においては官職の名称で、王に近侍し、どうやら財務をあつかったらしい。その後、この語は王室から出て一般に豪家の主人に近侍して庶務に任ずる者をいい、戦国の頃には、豪族の台所めしを食っている門下という程度の意味にも用いられた。
卒は、本来、しもべ・・・のことである。しかし戦国の頃「卒」と呼ばれる存在は、豪族に扶持ふちされている士のことを言う。
客もまた士である。しかし豪族に身を寄せている者をいい、ときに豪族自身が先生と呼んでその学識、精神、技能を敬せざるを得ない存在をいう。
これらの用語は、戦国もしくはそれ以前における王侯のごくうちうちの日常生活を執事する職名から出ているが、しかし劉邦の時代には、劉邦のような仁侠の親分の身内の呼称にまで使われるようになっていたと見る方が自然でいい。
なにしろ劉邦は、はいの町とその付近で、四十近くになるまで男伊達だてを渡世としてごろごろしていたために、彼の俠の組織に入って来る人数が多く、それらの親疎の程度や職分のあり方で、右のように、昔からある職名をつけて組織化する必要があった。というよりも、仁俠家の身内というものは、劉邦一家だけでなく、一般にこういうものであったかも知れない。
さらにこのことを随想風に考えると、日本の戦国時代の、たとえば三河の徳川家の場合などは、中涓、舎人、卒は、ひっくるめて譜代ふだいの家来ということのなるであろう。徳川家は、家康より数年前、山三河やまみかわの松平郷にいたときは、土地が山林で、水田を作る水流もなく、田地もほとんど持っていなかった。山林で兵を養い、野に降り、何代にもわたって水田地帯に勢力を拡大してゆくのだが、その時の家の政事は、老中、若年寄という独特の職名の者たちが切り盛りした。その職に就く者はみな譜代の者に限られ、主人の権力を代行するかわりに食禄は低かった。譜代家も、松平家の勢力が拡大して土地を併呑へいどんしてゆくにつれて新附しんぷの譜代ができ、このため古くから隷属した家の者ほど尊ばれ、安城あんじょう以来とか、岡崎以来などと呼ばれたが、最後に家康が天下を取った時、多くの既成大名を味方につけ、外様とざま大名とした。劉邦軍における客である。徳川家の場合、天下を取り仕切るようになっても三河の土豪時代の行政上の職名をそのまま使った。家康自身、死ぬとき、三河以来のしきたりを変えるな、と遺言した。行政上の権力は、古代中国でいう「中涓、舎人、卒」に持たせ、客にあたる外様大名には大封たいほうをあたえながら政治には関与させなかった。
家康が、いわば家内奴隷の名残とも言うべき譜代衆を信頼して大切にしたことは以上のことでもわかるは、しかし日本の戦国期の譜代衆の忠誠心というのは主人に対する盲目的な隷属心が結びつきのしんになっている。中国の戦国からしんの崩壊期に存在している劉邦とあおの身内の関係は、その時代なりに自覚した個人──後代の中国ではこの精神がほろびる──が、俠という相互扶助の精神をのりとして結びついているように思える。といって俠が高度な精神というのではなく、王朝が頼むに足りず、むしろ虎狼のような害があるという古代的な慢性不安の社会にあって、下層民が生きてゆくには互いに俠を持ち、まもりあう以外にないというところから発生した精神と言っていい。

そういう劉邦組織の中涓ちゅうけん舎人しゃじ、卒たちが、この組織が巨大になるにつれてそれぞれ戦国の諸王国が持っていた官職名──将軍、 都尉 とい 都尉、 左司馬 さしば しゃ 司馬、騎司馬、 御史 ぎょし 太僕 たいぼく など──を称し、車が旋回するようにこの軍事組織をそれぞれの職分によって旋回させるにいたる。
そのことは、このあたりでとどめる。
張良ちょうりょうのことである。
20200328
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