張良、字は子房しぼう
という。劉邦とその身内たちの出目が揃いも揃って卑しいのに対し、張良ばかりは異例であった。張良はやがて劉邦の「客」になり、軍師の任じ、いくさに弱い劉邦軍の運動をともかくも勝利の方向へ形づけてゆくことになる。
張良は、韓かんの人である。
韓というのは戦国七勇と呼ばれた国のひとつで、現在の山西省の南東部から中部にかけての肥沃ひよく
な中原ちゅうげんの一角を占めていた国だが、戦国末期になると、もっとも防衛しにくい国になった国境線が、一方では不断の膨張政策をとっている強秦きょうしん接し、一方では多分に蛮性を残した楚そに接しているために外交に苦渋が多く、戦いはつねに苦戦であり、これら宿命的な外圧のために内政の緊張が絶え間なかった。
韓が置かれたこういう環境というのは、国家とは何かという根源的な事を思索する思想的土壌をつくる結果となったともいえる。張良より半世紀ほど前の人に、この国の王族の中から韓非子かんぴし(韓非)が出ているのである。
韓非子はいうまでもなく法家ほうか思想の大成者であったが、彼の思想とそ国家学は韓の内部的現実の中からうまれたといっていい。
韓だけでなく、この大陸の戦国諸国の国家権力は、猥雑わいざつとさえいえるほどに多様な諸勢力の利害が辛うじて噛み合う接点の上に出来ている。韓非子はそれらの動物の内臓のようななまなましい現実を一掃し、法と能力だけで君主権を運営すれば韓もまた亡ぶことがないと考えた。
自然、彼は、儒家じゅか
を思想上の敵とした。
この当時この大陸の世間(その後もそうだが)は、十八、九世紀で成立する近代国家とはむろんちがっている。まず君主のそばに中涓ちゅけん、舎人しゃじんなどの近習きんじゅうがいて、君主を籠絡ろうらくし、君主権を自分の私的利益の基準で運営している。大臣たちも個々に勢力を持っていてその勢力の利害から物事を判断し、また商工の民(当時は非違生産的な遊民とみられていた)はこれらと結託し、私利をはかり、十九世紀以後の感覚で言えば国家全体が汚職のかたまりのようなものであった。それはそれなりに太古以来の秩序と倫理があり、むしろそうあることが父兄や血族、地縁の長老などに対して礼にかない、孝でもあるということで、この時代の儒教教団はそれを大肯定した上で倫理学を作り上げていた。
韓非子は、このように血縁、地縁の調整の上に辛うじて成立している君主権ではその働きが小さく、いざというときには命令権も指揮権も隅々まで届きにくい、という基本的な疑問の上から、法をもって単純明快に世を治めるという法家の思想を築いた。一方において彼の思想をいやが上にも透明にする働きをしているのは、哲学的にも政治的にも一種の虚無思想といえる老子ろうしの思想であった。老子は政治において無為の道を説いたが、韓非子はいわば老子を政治学に仕立て上げたといえなくはない。が、この思想は、実験室にとどまるという点もある。老子も韓非子も、その思想の絶対の前提として民はあくまでも無知無欲でなければならぬ、というところに置いており、多分に自然物に化なってしまうはずの民は、君主に対し、その存在や統治を重さとして感じない。また重さとして民に感じさせる政治は不可である。とするあたり、思想としてもっと魅力に富む部分だが、しかし底のない壺つぼのように現実から遊離しているともいえる。
本来、法家の信奉者である秦しん王政せい(のちの始皇帝しこうてい)は、韓非子の『孤憤』『五蠧ごと』といった著作を読んで感動し、
── この著者に会えば死んでもいい。
とまで昂奮したといわれる。政の気質から見て彼が感じ入った部分は、韓非子流でやれば民が自然物に化なってしまうというあたりと、君主権が諸勢力の調整の上に立つのではなく、人民の個々に直じかに及ぶというところであったろう。事実、政は、その大臣である法家学者の李斯りしをつかってある程度まで韓非子の思想を秦帝国において果断に実行した、といえる。もっとも始皇帝は民を自然物と決めつけすぎ、それを容赦なく労役にこき使い、あげくの果てにその死後、自然物どもが大反乱を起こす結果を招いた。
ついでながら韓非子の説は母国の韓で容いれられず、彼自身、秦に使いし、咸陽かんようの宮殿で始皇帝に会った。始皇帝は韓非子を尊敬した。しかしそのあまり、この男を生かしておくことの害を考え、物でも捨てるように殺してしまった。 |
20200328 |
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