張良は、韓非子かんぴしについての人々の記憶が残っている時代、韓に生まれた。
彼の父張平ちょうへいは二代の王に仕えた宰相で、彼の祖父張開地かいちもおなじく宰相として三代の王に仕えたから、韓の遺民としては代表的な旧貴族の出身といっていい。
張良の父平へいは、韓の末期の王である悼恵とうけい王に仕えた名臣であった。彼は弾圧を加えてくる秦しんに対し、和戦両面で苦心し、その労のあまり死んだ。死後、韓が滅び、その最後の王である安あんが秦に捕らえられ、国名が消滅し、韓の故地は、この大陸を統一した秦帝国の穎川郡えいせんぐんになった。紀元前二三〇年である。
韓王国が滅びたとき、張良はまだ弱年であった。このため官に仕えておらず、殺到する秦軍が国土を蹂躙じゅうりんするのを身を固くして眺めていた。この時の張良の秦への憎悪の激しさは、尋常ではなかった。彼は復讐を誓った。自分の生涯を、復讐という一主題だけで貫き通す苛烈さは、張良の外貌から想像し難かった。体つきが華奢きゃしゃな上に病弱で、しかも頬が透き通るように白く、その容貌は女装すればそのまま類のない美少女が出来上がってしまうほどだった。
韓が亡んだ直後に張良の弟が死んだ。彼は弱年ながら家長であり、その葬儀を主宰せねばならなかったが、
「その費ついえを吝おしむ」
といって葬らず、家財のことごとくを散じて四方の賓客ひんきゃくをもとめた。この場合の客は、刺客しかくであり、秦王一人を殺すためのものであった。この時代、人々の感情が多量で、ひとたび知遇に感ずれば自分の命を卵たまごのように地にたたきつけるという底ていの遊士が多く、張良のこの試みは荒唐こうとうなものとはいえなかった。しかし秦王がやがて秦の始皇帝へ成長するにつれその護衛が厳重になり、とうてい刺客の近づけるものでないことがわかった。
張良は淮陽わいよう(河南省)へ行き、師匠について礼を学んだ。
この時代のこの場合、礼というのは儒教でいう礼の体系でなく、貴人に接する時の進退挙措きょその方法のことで、張良は将来、なにか詐略さくりゃくを構えて始皇帝にみずから近づく場合を考え、身に作法をつけておこうとしたのである。張良は、詐略のことばかりを考えていた。
── どうすれば人を騙だませるか。
ということを渾身こんしん頭脳のようなこの若者が、刃物のように自分を研ぎすまして考え続けていたということは、凄愴せいそうともなんとも言いようがない。
「東夷とういに、大力の男がいます」
ということを、張良に教えた者がいた。
この時代、東夷、──東方の蛮地── という土地は、地理的に漠然としている。遼東灣の沿岸あたりかと思われるが、張良ははるかにその地まで行き、倉海君そうかいくんと呼ばれている酋長しゅうちょうに会った。めざす力士も見た。山のような体を持っていた。張良は倉海君にこの力士を自分に呉くれるように頼み、その頼みが容れられた。
力士は、張良と言語が通じない。しかし骨まで透けて見えるような張良の人柄にはげしく感じ、
「あんたの言いつけなら、何であれ、順したがう」
という意味のことを、繰り返し言った。力士は蛮地の夷人ながら、この沸たぎった時代の心を共有しており、気に入った人間のためなら平然と死んでみせるという、その後の時代にはない気分を持っていた。
張良と力士は、何ヶ月も旅をした。力士はいよいよ張良の人間に吸い込まれるような敬愛をおぼえ、
(この人は、神仙ではないか)
とさえ思うようになった。そう思わせるものが、張良にはあった。
彼は年少の頃から老子の思想に憑つかれ、自分の中の世俗的な野望、出世欲、名声欲といったなまぐさいものを少しずつ消してゆくという自己訓練を重ねて来た。思想でもって自分に言いきかせるだけでなく、道引どういんと呼ばれる道家の呼吸法を、毎日、長時間やっていた。
道引は導引とも書く。一定の方法によって深呼吸をするだけだが、大気をかっらだの中に導き入れ、それによって宇宙に合一し、心を鎮め、諸欲を去るというもので、張良ほど知的な男が、本気でこれをやっていた。老子の教えは、後の禅家のように悟りという至難なことまでは要求しない。老子は、幼児がもっとも宇宙に近いとする。このため日常の生活態度は幼児を理想とし、幼児のように柔軟であれ、とするもので、道引をかさねてゆけばやがて自己を幼児に似た透明な状態にまで持って行けるのである。
張良はただ秦に復讐するという目的のために、どうすれば人を欺騙ぎへんできるかという策を、後世の数学者が、ただ一つの答えのために多様な数式を考え出すように練りに練っていたが、この古怪な情熱のために人格があるいは変質するかも知れないところを、別に自己を透明化する思想の行者ぎょうじゃでありつづけることによって救っていたと言える。ついでなから張良はその早い晩年、道引だけでなくその上に穀類迄断ち、「身を羽毛のように軽くして神仙になるのだ」と言っていたが、ついに衰弱して死んだ。これを見ても、張良は生まれつき物に激しくこる・・という気質があったことがわかるし、東夷の力士を魅ひきつけたのも、一種神韻を感じさせる一途いちずさというものから来る何かであったにちがいない。 |
20200329 |
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