張良というこの若者は後に卓越した作戦家の名をうたわれるにいたる。
その能力の半ばは東夷の力士との放浪時代に養われたものにちがいない。始皇帝というただ一人の敵の動静を探るために多数の諜者を養い、四方に撒まき、雑多な情報を常にひざ元に集めていて、ちょうど瓦礫がれきの中から璞あらたまを探し出すように確度の高いものを選びあげた。この時期、始皇帝自身の側近をのぞいては、天下で張良ほど始皇帝の動静を知っていた者は居なかったかも知れない。
始皇帝は天下を統一した(紀元前二二一年)翌年から、その生涯大好きだった巡行をはじめている。
天下統一から三年経った年の春、山東方面を巡遊し、途中、博浪沙はくろうさというところを通過した時に、事故があった。史記『秦始皇本紀』に、このことが簡潔に記載されている。
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始皇東游ス。陽武ようぶノ博浪沙中ニ至ッテ、盗とうノ驚カストコロトナル |
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右の文章でいう盗が、張良と力士である。
博浪沙は河南省にある。太古以来、黄河こうがは氾濫を繰り返してきたが、博浪沙の奇景はその痕跡であるといえる。氾濫がひいたあと黄沙が残り、浪のように起伏して砂漠のような状態をつくり、付近に人家もなかった。
山東をめざして行く始皇帝の鹵簿ろぼとその護衛は、この沙中の道を通過する。張良はそのことを知り、力士と共に砂丘のかげに潜伏したのである。
力士は張良が鍛冶に造らせた重さ二十斤(二十七キロ)の大鉄槌てっついに綱をつけたものを持っている。
やがて始皇帝の鹵簿が近づいた時、力士は立ち上がり、全身を露あらわにしてこのハンマーを旋回し、ついに放って遥かに飛ばした。鉄槌はみごとに飛んだが、しかし始皇帝の車に当たらず、その副車に命中し、車輪をこなごなに砕いた。
「しくじった」
と知ると、張良は逃げた。力士とはかねて打ち合わせたとおり、べつべつの方角に逃げ、以後、ついに互いに会うことがなかった。
始皇帝は大いに怒り、天下に令して犯人をもとめたが、張良は名を変え、転々し、ついに下邳かひ(江蘇こうそ省)にきてかくれた。
下邳は古代の下邳国の首都である。秦しんになって下邳県の治所にもなっていて、このあたりでは相当な規模の町と言えた。市中に細流が網のように流れ、橋が多い。
ある朝、張良はひどく気分が良かった。散策して橋のほとりにまで至ると、粗末な衣服を着た老人が近づいてきて、わざと履くつを橋の下に落とした。しかも張良をかえりみて「小僧(孺子じゅし)」と呼び、
「拾って来い」
と、あごでしゃくった。
張良はむっとしたが、しかし復讐と潜伏という二つの課題を持つ以上、人と争って目立つことは不利であった。その上、この大陸では敬老を重要な徳目とする儒教の発生以前から老人を尊ぶ風が土俗としてありつづけている。張良は思いなおして身を卑ひくくし、老人を見た。痩せて醜怪な容貌である。表情がまったくなく、口をあけると、数本残っている歯が、なにかの礦物こうぶつのように黄色かった。
張良が下へ降りて履を拾い、路上にもどって老人に渡そうとすると、
「穿はかせろ」
と、老人は片足をあげた。張良はこういう理不尽さに対して心身をやわらかにする心術をもっていた。彼の教祖である老子は、いわば柳枝りゅうしが風にそよぐような態度をとることを教えているのである。張良がごく自然に身をかがめ、老人の片足に履をはかせたのは、道引どういんで得た呼吸というものであろう。
老人は、おそらくこの時代の原始段階の老荘の徒だったにちがいない。老荘は、無為を尚とうとぶ。張良の身ごなしや表情に、よく訓練された無為を感じ取ったらしく、満足して去った。
しかしほどなく戻って来て、
「小僧」
と、もう一度、権高けんだかに言った。
「物を教えてやる。五日後の早朝にここへ来い」
相手がこういう、いわば陽の態度で出る時は張良はすばやく陰になってひざまずいてしまう。害を避けるにはこれしかなかった。
「はい」
と、頭を垂れたのを見て、老人は満足したように思われた。
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20200329 |