~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
張良の登場 (七)
張良は命じられたように五日後の早朝に、橋畔までゆくと、すでに老人が待っており、目をむいてされた。
「老人と約束して遅れるとは何事だ」
出直して来い、といわれ、つぎの五日後の朝、張良は夜中に出かけて橋畔で待った。ほどなく老人がやって来て一個の荷物を張良に渡した。それが、兵法書であったと言われる。
以上は司馬遷しばせんが下邳の故老か、張良の子孫かに会って取材した張良伝説の一つである。
この書には、
太公たいこう兵法』
と題されてあったという。
太公とは、釣りで有名な太公望たいこうぼう呂尚りょしょうのことである。周のぶん王に見出された名将で、この時代からみれば気の遠くなるほど古い頃の人物だが、しかし伝承のなかでは十分著名だったらしい。
張良が老人に貰ったという『太公兵法』という書物が実在したものなのかどうか、よくわからない。
ちなみに、太公望呂尚の著といわっる『六韜りくとう』という兵法書がある。これはこの時代どころか、漢よりずっと以後に太公望に仮託して作られたもので、この張良伝承が事実であるとしても、この兵法書は『六韜』ではない。
「これを読めば、お前は王者の師になれるだろう」
と、老人は橋畔で言った。張良が老人の名や住まいを聞こうとすると、老人は、あわてずとも、十三年後にお前はわしに会うはずだ、と言った。老人の予言というのは、十三年後にお前は済北せいほく穀城山こくじょうざん(山東省)を過ぎる、そのふもとで、黄色い石を見ることになる、その黄石がわしだ、ということであった。
事実、張良は十三年後に済北の穀城山を過ぎ、黄岩を見ることになる。張良はそれを漢都の屋敷に持ち帰って手厚くまつった。彼の死後、遺族は彼の小さな遺骸とともに黄石をもあわせて葬ったとされる。今日、張良の墳墓がもし見つかって発掘されれば、黄石の存在の実否も明らかになるが、あるいはこの黄石たんも、張良自身の詐略かも知れない。

このあと、張良は下邳かひに居つき、仁俠のむれに投じた。他日を期し、自分の勢力をつくっておくためだが、しかし劉邦りゅうほうのように親分になれる器ではなく、むしろ有力な俠徒たちから信頼を得、義兄弟の盟を結んでおこうとした。しかしそれなりに張良の勢力と俠心の度合いがうかがえるのは、ある時飛び込んできたお尋ね者の人をかくまい、命を助けてやったことがあるという一事でもわかる。
この楚人が、のちにわかるのだが、項羽こううおじ・・だった。項羽は、おじたちのなかでも項梁に養われ、のちともに挙兵したが、他にもおじがいた。その一人が項伯こうはくというおとなしい男で、項羽が一勢力になってから、楚軍に身を寄せることになる、張良が下邳時代、かくまって命を助けた旅のお尋ね者とはこの項伯であった。項伯はこの恩を忘れず、のち張良に恩返しすることによって、劉邦までが一命を拾うというひどく劇的な結果の因をつくる。この時代の俠 の心、習慣、紐帶じゅうたい を考えると、俠の精神そのものが劇的な因子をもつものだといってよく、一面、張良の生涯を彩る華やぎそのものも、俠という異常な倫理によるものであったかと思える。
20200330
Next